遠征計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 07:22 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1690年)」の記事における「遠征計画」の解説
詳細は「ウィリアム王戦争」を参照 1688年、大同盟戦争がヨーロッパではじまり、フランスへの対抗のために、1689年、大同盟にイングランドが加わって、規模が拡大された。 ヌーベルフランス当局は、1688年の、名誉革命の余波による混乱で、緊張状態にあるニューイングランドやニューヨーク植民地の辺境に、同盟を結んだ先住民と襲撃を仕掛けるため資金をつぎ込んでいた。1690年の2つの襲撃、シュネクタディの虐殺と、サーモンフォールズの奇襲はマサチューセッツ湾植民地当局を怒らせ、アカディアに向けて報復するための遠征が認められた。 アカディアへの遠征計画が最初に持ち上がったのは、1689年の8月、ペマキド(現メイン州ブリストル)のフォート・ウィリアム・ヘンリーが、フランスのと先住民の手に落ちた時だった。その年の12月、マサチューセッツ湾当局は、基本的に志願兵から成る遠征隊を認可し、それを組織するための委員会を立ち上げた。しかし、1690年の襲撃の後で、遠征が火急を要するものとなり、公的な支援が増え、高名な入植者何名かが、遠征隊の指揮官として検討された。遠征隊を大々的に提案した一人である交易業者のジョン・ネルソンは、かつて、アカディアのフランス系住民相手に取引をしていたため見送られた。 最終的に、サー・ウィリアム・フィップスで決まりとなった。フィップスはメイン生まれで、軍の経験はなかったが、西インド諸島で難破した財宝船を見つけ、それで名声を得た人物だった。3月24日、フィップスは少将に任命され、遠征隊の指揮をゆだねられた。 1690年4月28日、フィップスは5隻から成る艦隊を率いてボストンを出航した。従軍した植民地兵は446人だった。旗艦である「シックス・フレンズ」は42の砲門があった、「ポーキュパイン」には16台だった。あとはスループ船の「メアリー」と、2隻のケッチ(マストが2本の沿岸用の帆船)だった。マウント・デザート島で、バーク船(マストが3本の帆船)「ユニオン」、そしてもう1隻のケッチ船と合流した。ペノブスコット湾とパサマクォディ湾とで、フランスがどこの土地を抑えているかを調べてから、フィップスはポートロワイヤルへ向かい、5月9日、その近くに到着した。翌朝早く、町に入る前に、フィップスはピエール・メランソン・ディ・ラベルデュールと会った。この人物は、英語も話せるフランス人の清教徒(ユグノー)で、この町の今の状況を確認した後、フィップスは錨を上げ、ポートロワイヤルへと向かった。
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