にしインド‐しょとう〔‐シヨタウ〕【西インド諸島】
西インド諸島
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西インド諸島(にしインドしょとう、せいインドしょとう[1][2]、英語: West Indies、スペイン語: Indias Occidentales、フランス語: Antilles (Indes occidentales)、オランダ語: West-Indië)は、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島である。アメリカ合衆国のフロリダ半島南端、および、メキシコのユカタン半島東端から、ベネズエラの北西部沿岸にかけて、少なくとも7000の島、小島、岩礁、珊瑚礁がカーブを描くようにして連なる。これらの島々が、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海の境界線を形成している。
- 1 西インド諸島とは
- 2 西インド諸島の概要
- 3 名称と範囲
- 4 関連項目
西インド諸島
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「デヴィッド・ファラガット」の記事における「西インド諸島」の解説
1822年、ファラガットは海軍大尉に昇進した。西インド諸島の海賊に対する作戦を実行中だった。カリブ海で海賊と戦うために艤装された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。昔の艦長であるポーター准将が艦隊指揮を執ることを知ると、ポーターの弟であるジョン・ポーターが指揮する小艦の1つグレイハウンド乗艦を求め、認められた。1823年2月14日、艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、その後の6か月で、海賊をカリブ海から追い出し、様々な島の隠れ家から駆逐した。この作戦ではエクスペリメントの副艦長になった。1824年、USSフェレットの指揮を任され、初めて指揮する艦となった。
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西インド諸島
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カリー・ゴート(ジャマイカ):カレー粉で下味をつけたヤギ肉を煮込んだ料理。
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西インド諸島
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「チャールズ・ノウルズ」の記事における「西インド諸島」の解説
技師としての評価を獲得し、イギリスに戻ったノウルズに、ウェストミンスター橋の設計書の作成についての助言と監督の役割が与えられた。このためにノウルズは、パリのポンヌフの研究をしに行った。1732年には40門艦サザンプトン(英語版)の中佐に昇進したが、これは実態を伴わない階級であり、ダイヤモンド(英語版)の指揮官となるまで、艦長の副官として仕事をしたのは1737年2月4日になってからであった。1739年にはエドワード・ヴァーノン率いる西インド艦隊の援軍に向かうよう命令を受けた。ジェンキンスの耳の戦争が進展していたからである。ノウルズはポートロイヤルでヴァーノンと合流し、西インド諸島へ向かう途中で2隻のスペイン船を拿捕した。うち1隻は12万スペインドル(かつてのスペイン銀貨)と兵士6000人分の衣類を積んだレジスターシップであった 。ポルトベロへヴァーノンが艦隊を進めている時は同行できなかったが、11月27日になってノウルズもポルトベロに到着し、その5日後にポルトベロの戦いでイギリスは勝利した。ヴァーノンはノウルズに、スペインの砦を破壊するよう命令した。砦は頑丈にできており、破壊には結局3週間と122樽もの火薬を必要とした。砦を破壊しつくしたのち、イギリスは撤退した。ノウルズの陸上作戦での完璧な指揮は、ヴァーノンに強い印象を与えた。 次にヴァーノンは、ノウルズにカルタヘナ沖を航海して、スペイン軍を監視し、彼らへの監視と、敵軍への物資の補給を禁じるよう命じた。ノウルズはそこで火船サクセス(英語版)に移り、チャグレスの港への攻め口を調べるように部下に命令した。この任務を終え、攻撃計画をまとめたのち、臼砲艦と火船、他の小舟を指揮して、チャグレス川の河口にある、サンロレンソ砦を徹底的に破壊する任務についた。チャグレスの町と城とは1740年3月24日に降伏し、ノウルズは城の責任者となった。ヴァーノンはまた、砦に集めてあるスペインに輸送予定の物品を移動させ、何隻かの私掠船を沈めるように言った。ノウルズは城を取り壊す仕事に取り掛かった、稜堡の下で地雷をいくつか爆発させ、居住部分を焼いた。これを終えたのち、3月末にヴァーノン艦隊は退却し、ポルトベロ経由でポートロイヤルに戻った。
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西インド諸島
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「ジョシュア・ロウリー」の記事における「西インド諸島」の解説
詳細は「イギリス軍のドミニカ遠征」を参照 1760年、ロウリーは、准将のジェームズ・ダグラス(英語版)と西インド諸島に向かった、そこでロウリーはドミニカ遠征軍に合流した。この遠征ではアンドリュー・ロロ(英語版)将軍が、1日戦っただけで島全体を征服した。1760年6月7日のことだった。同じ年の11月、ロウリーは3等艦24門艦のシュパーブに移った 。その年は東インド会社の船の護衛に加わり、その後2隻のフリゲート艦、HMSゴスポート(英語版)、ダネイ(英語版)を連れてイギリスに戻った。このゴスポートの艦長は若き日のジョン・ジャーヴィスだった。ロウリーはその後もインドと西インド諸島の交易の護衛のため西へ向かい、フランス軍准将シャルル=アンリ=ルイ・ダルサック・ド・テルネ(英語版)から船団を守り通した。 しかし彼の指揮は、東インド会社からも、ロンドンの西からも大いにほめられ-インドの商人たちは、彼に素敵な銀のイパーン(英語版)と皿を贈呈する。 — 数年ドミニカで過ごしたのち、1776年にロウリーはモナークに乗艦し、1778年の始めにジブラルタルへの船団を護衛した。
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西インド諸島
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「デンマークによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「西インド諸島」の解説
デンマーク=ノルウェー王国の探検者(主にノルウェー人)、科学者、商人(主にデンマーク人)および開拓者が、17世紀と18世紀にデンマーク領西インド諸島(今日のアメリカ領ヴァージン諸島)を領有した。 1672年にヴァージン諸島のセント・トーマス島、1683年にセント・ジョン島での植民地化を始めた。ただし、セント・ジョン島の場合は1718年までイギリス領ヴァージン諸島を形成していたイギリスとの領有論争があった。また1733年にはフランスからセント・クロイ島を買収した。18世紀、カリブ海のヴァージン諸島は2つの領土に分かれていた。1つはイギリス領、もう1つがデンマーク=ノルウェー領だった。デンマーク=ノルウェー領の諸島は1755年まで「デンマーク西インドおよびギニア会社」が運営していたが、その後はデンマーク=ノルウェー王室が買い上げた。 18世紀と19世紀初期は奴隷労働を使ったサトウキビ栽培が諸島の経済を振興させた。デンマークの製造者がアフリカで奴隷を購入し、それを西インド諸島で売却し、砂糖がデンマークに送られるという三角貿易の形態が採られたが、ナポレオン戦争の敗北以降海上貿易は不振となった。1803年に奴隷貿易は廃止されたが、奴隷制自体は自由なイギリス領諸島への大量の奴隷逃亡や奴隷の抗議が続いた後、1848年になって廃止された。デンマーク領ヴァージン諸島は海賊の基地としても使われた。この諸島ではイギリスとオランダの開拓者達が奴隷を使わない大きな集団に成長した。彼等の言語が支配的となったので、デンマーク政府は1839年に奴隷の子供が英語による学校に入学することを義務付けた。1840年代から1850年代にその人口はピークに達したが、その後経済不況のために出国する者が増え、人口は減少した。この傾向はアメリカ合衆国がこの諸島を買収した後まで続いた。1880年の人口は34,000人だった。 1868年、島民はアメリカ合衆国にその植民地を売却することを投票で決めたが、その提案は拒絶された。1902年にはデンマークがアメリカ合衆国の買収提案を拒否した。1917年、アメリカ合衆国が奴隷制廃止以降経済が傾いていたヴァージン諸島をパナマ運河に対するドイツ帝国からの防衛の拠点とする為に買収した。
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「西インド諸島」の例文・使い方・用例・文例
- 仏領西インド諸島から始まった社交ダンス
- 米国熱帯性地域および西インド諸島産の黒い斑点の列を持つ銀色カダヤシ
- 熱帯アメリカと西インド諸島にすむ非常に大型のボア
- 中央アメリカ、南アメリカと西インド諸島のすばしっこく長い足のある兎の大きさの齧歯動物
- ノヴァスコシアから西インド諸島とメキシコ湾まで
- 西大西洋・西インド諸島の海にすむ色鮮やかな肉食魚で、キントキダイ科の魚の一種
- 西インド諸島に見られる
- 西インド諸島の透き通った海を除く、ニューイングランドからブラジルまでの沿岸海域で見つかる
- 西インド諸島とフロリダ州沖で見られる
- 西インド諸島からブラジルまでで見られる金または黒のチョウウオ
- バミューダ・フロリダ州・西インド諸島産の青と黄色のスズメダイ
- 西インド諸島と地中海の圧縮された鋭利な上部にいるいくつかの小さなベラのいずれか
- 西インド諸島産のニザダイ
- 西インド諸島のヒスパニオラ島の、または、西インド諸島のヒスパニオラ島に関する
- アフリカに起源を持ち、西インド諸島で実践されている一種の呪術信仰
- 西インド諸島が起源のポピュラーミュージック
- フロリダと西インド諸島産の卵形で黄橙色の粉をふいた甘い果物
- 西インド諸島のオールスパイスの木の挽いて粉末にした乾燥ブドウに似た実
- 西インド諸島の英国領
- バハマ、セントルシア、アンティグア、グレナダ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダードを含む英国の支配下であったであった旧西インド諸島
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