西インドの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:13 UTC 版)
オランダにとって、西インドにおける戦争はほぼ開戦前に終結していた。イギリス海軍のリーワード諸島駐屯地の指揮官であるジョージ・ロドニー提督は宣戦布告の報せが届くと即座に出撃、まだ開戦を知らない多くのオランダ軍艦や商船を驚かしつつカリブ海のオランダ植民地、すなわちシント・ユースタティウス島、サバ島、シント・マールテンを攻撃した。シント・ユースタティウス島は1781年2月3日に占領され(英語版)、それまでアメリカ反乱軍への武器提供に重要な役割を果たしていただけあってロドニーに完全に破壊された。彼は特にシント・ユースタティウス島のユダヤ人商人に報復した。島にあった全ての貨物は没収され、オランダ人、アメリカ人、フランス人、イギリス人にかかわらず商人全員が追放された。戦利品の一部はその場で競売にかけられたが、多くがイギリス行きの護送船団に載せられた。この護送船団の多くは後に英仏海峡でトゥサン=ギヨーム・ピケ・ド・ラ・モット(英語版)率いるフランス艦隊に拿捕されたが、フランスは貨物をオランダに返還しなかった。 オランダ領リーワード・アンティル諸島とオランダ領スリナム(英語版)は攻撃されたがオランダ領に留まり、一方近隣のエセキボ植民地(英語版)、ベルビセ植民地(英語版)、デメララ植民地(英語版)は1781年にはすでにイギリスに占領された。これらの植民地は1782年にフランスのアルマン・ド・ケルサン(英語版)に奪回され、戦後にオランダに返還された。
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