西インド諸島 1778年-1779年とは? わかりやすく解説

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西インド諸島 1778年-1779年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 17:21 UTC 版)

アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「西インド諸島 1778年-1779年」の解説

冬が近づいて、北アメリカ沿岸での作戦行動危険になった。西インド諸島では6月から10月にかけてがハリケーン季節であるが、北部海岸では逆に10月から6月までが嵐の多い冬を含む危険な季節である。このことが戦争における海軍の作戦行動大きく影響していた。 1778年11月4日デスタン西インド諸島向かったハリファックスニューファンドランド島での協力期待していた大陸軍にとっては思いがけないことであった。同じ日に、イギリス軍のウィリアム・ホザム代将西インド諸島艦隊増援のためにニューヨーク出帆した9月7日にはフランスマルティニーク島総督ド・ブイエ侯爵フランソワ・クロード・アムールがイギリス領ドミニカ島占領していた。リーワード諸島にいたイギリス軍のサミュエル・バリントン提督がホザムの増援得て12月13日から14日セントルシア島を占領することにより報復したデスタンはホーサムを追撃したが、12月15日セントルシアクルドサック付近バリントン2度にわたる小戦闘を行い結局退けられた(セントルシア島の海戦)。 1779年1月6日イギリス海軍バイロン提督西インド諸島到着したこの年前半お互いに警戒しあっていたが、6月バイロン商船隊帰国護衛するためにアンティグア島向かった隙に、デスタンはまずセントビンセント島を、続いてグレナダ島を占領した戻っていたバイロン救援駆け付けたが間に合わなかった。7月6日グレナダ島沖で海戦グレナダの海戦)があったが決定的な結果とはならなかった。西インド諸島での戦いは一旦終息しバイロン8月帰国したデスタン9月ジョージア植民地サバンナ大陸軍協働したものの不首尾に終わり、やはり帰国した

※この「西インド諸島 1778年-1779年」の解説は、「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の解説の一部です。
「西インド諸島 1778年-1779年」を含む「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事については、「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の概要を参照ください。

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