西インド諸島 1778年-1779年
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「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「西インド諸島 1778年-1779年」の解説
冬が近づいて、北アメリカ沿岸での作戦行動は危険になった。西インド諸島では6月から10月にかけてがハリケーンの季節であるが、北部の海岸では逆に10月から6月までが嵐の多い冬を含む危険な季節である。このことが戦争における海軍の作戦行動に大きく影響していた。 1778年11月4日、デスタンは西インド諸島に向かった。ハリファックスやニューファンドランド島での協力を期待していた大陸軍にとっては思いがけないことであった。同じ日に、イギリス軍のウィリアム・ホザム代将が西インド諸島の艦隊増援のためにニューヨークを出帆した。9月7日にはフランスのマルティニーク島総督ド・ブイエ侯爵フランソワ・クロード・アムールがイギリス領のドミニカ島を占領していた。リーワード諸島にいたイギリス軍のサミュエル・バリントン提督がホザムの増援を得て12月13日から14日にセントルシア島を占領することにより報復した。デスタンはホーサムを追撃したが、12月15日にセントルシア島クルドサック湾付近でバリントンと2度にわたる小戦闘を行い、結局退けられた(セントルシア島の海戦)。 1779年1月6日、イギリス海軍のバイロン提督が西インド諸島に到着した。この年の前半はお互いに警戒しあっていたが、6月にバイロンが商船隊の帰国を護衛するためにアンティグア島に向かった隙に、デスタンはまずセントビンセント島を、続いてグレナダ島を占領した。戻っていたバイロンは救援に駆け付けたが間に合わなかった。7月6日にグレナダ島沖で海戦(グレナダの海戦)があったが決定的な結果とはならなかった。西インド諸島での戦いは一旦終息し、バイロンは8月に帰国した。デスタンは9月にジョージア植民地のサバンナで大陸軍と協働したものの不首尾に終わり、やはり帰国した。
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