国際戦:1778年-1783年
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「アメリカ独立戦争」の記事における「国際戦:1778年-1783年」の解説
1778年、北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは1778年2月6日にアメリカ合衆国と同盟条約を結んだ。1779年6月には、ブルボン家盟約を更新し、スペインがフランスの同盟国として参戦した。しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。スペインはその植民地帝国の中で同じような反乱を助長するのではないかと神経を尖らせていた。オランダも1780年に参戦した。3国共にイギリスの力を削ぐことを期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していた。 さらにラファイエットやコシューシコ、プワスキら欧州の義勇軍が参加した。1780年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。 ロンドンでは、国王ジョージ3世がより多くの軍隊を送ってアメリカを従わせるという希望を諦めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争に捉われていたからである。「ペンシルベニアを保持しておこうなどと考えるのは冗談だった」とジョージ3世は言った。ニューイングランドを回復する望みも無くなっていた。しかし、国王は「アメリカの独立は決して認めない。永久に続くように見える戦争を無制限に引き伸ばして、命令に従わない者を罰してやろう」と決心した。国王の計画は、ニューヨーク、ロードアイランド、カナダおよびフロリダの3万名の防衛軍を維持し、他の部隊で西インド諸島にいるフランスとスペインを叩くことだった。アメリカを罰するために国王が考えたことは、アメリカの海上貿易を破壊し、港を砲撃し、海岸に近い町(例えばニューロンドン)を襲って燃やしてしまうことであり、アメリカの先住民を送って辺境の開拓地にいる市民を襲わせることだった。これらの活動でアメリカの王党派を刺激でき、大陸会議をばらばらにし、「反逆者を嫌がらせ、気を揉ませ、貧しいままにしておけば、自然にかつ当然の帰結として不満と失望が後悔と自責の念に変わった暁には」国王の権威の下に戻ることを願うようになるとジョージ3世は考えた。この計画は王党派や忠実なアメリカの先住民族の破壊や金のかかる戦争を無制限に引き伸ばすことも意味しており、またフランスやスペインが艦隊を集めてイギリス諸島を侵略しロンドンを占領する危険もあった。イギリスはヨーロッパの連合軍を処理した後で、反抗している植民地を再度従わせる計画にした。
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