辺境の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 23:19 UTC 版)
「サウスカロライナ植民地」の記事における「辺境の開拓」の解説
ロバート・ジョンソン知事は、チャールズタウンの港湾から更に利益を得るためと、カロライナの人々に攻撃を掛けようという者との緩衝地帯を儲けるために、西部辺境の開拓を奨励した。カロライナの人々はヨーロッパのプロテスタントを惹きつけるために基金を準備した。ここに入植する者はその奴隷を含む一家の人数に応じた広さの土地を無償で提供された。共に入植した100家族毎に教区が設定され、植民地議会に2人の代表を送ることが認められた。10年以内に航行可能な川の流域に沿って8の郡区が形成された。ドイツ人、スコットランド人、アイルランド人およびウェールズ人によって造られたオレンジバーグやサクセ・ゴータ(後のケーシー)のような町を、チャールストンの住人はインディアンが襲ってきた場合の防衛線、あるいは奴隷が反乱を起こした場合の予備軍と考えていた。 1750年までにピードモント地区は大幌馬車道路を使って南下した辺境開拓者の家族で埋まっていった。奥地のカルヴァン主義を信条とする農夫と、低地のイギリス国教会信徒で特権階級的なプランテーション経営者との間の考え方の違いは、2つの地域の間に不信と敵意を生んだ。アメリカ独立戦争のときまでに、奥地にはサウスカロライナの白人人口の半分近く、2万人から3万人が住み、ほとんどが非国教徒であった。最初の憲法の約束事にも拘らず、イギリス国教会信徒のプランテーション経営者達は独自の道を歩み、イギリス国教会をサウスカロライナの公式教会とした。
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