町の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:20 UTC 版)
「アクスブリッジ (マサチューセッツ州)」の記事における「町の起源」の解説
en:History_of_Uxbridge,_Massachusetts(英語版・アクスブリッジの歴史)も参照。 インディアン時代のことは多くは伝わっていない。しかし、ニプマク族はこの辺りを「Wacantuck(ワカンタック)」あるいは「Waentug(ワエンタグ)」と呼んでいた。一説によれば、これは彼らの言葉で“川が曲がる所”を意味したという。ここには17世紀半ばには人口50人強の村があったとされている。 17世紀の半ば頃から、宣教師のジョン・エリオット(John Eliot)がこの村を訪れるようになり、やがてニプマク族のうちキリスト教に改宗した者(Praying Indian)のために村の発展に助力した。 1640年代からヨーロッパ移民が不正規に周辺へ進出していたが、1659年に当時のマサチューセッツ第一裁判所(Massachusetts General Court)は、こうした開拓者たちがニプマク族から土地を買収することに許可を出した。1662年にブレインツリーとウェイマスの開拓者たちは、ニプマク族の族長である“偉大なジョン(Great John)”に土地の売買契約書に署名させた。これにより、メドフィールド(en:Medfield, Massachusetts)の西方15マイル(約24km)にある8マイル(13km)四方の土地が24スターリング・ポンドの対価で開拓者に売り渡された。1667年には、このさらに東側の土地が売り渡され、そこはやがてメンドン(Mendon)の町になった。当時のこのあたりは、最も辺境の開拓地で、20から25の家族が入植し、インディアンとは友好的に交易を行っていた。彼らの中にはインディアンの言葉を覚え、キリスト教の布教を行った者もあり、実際に改宗したインディアンもいた。 しかし、長年にわたりインディアンの土地を「奪って」いた白人に対するインディアンの不満は募り、とうとう1675年にインディアン諸部族と白人の間で戦乱となった。インディアン諸部族から選ばれた代表者メタコメットを白人は「フィリップ王」と呼んでいたので、この戦乱をフィリップ王戦争と呼ぶ。Wacantuck(ワカンタック)やメンドンの住民は、この戦争によるマサチューセッツでの最初の犠牲者となり、最初期の入植者たちは皆殺しにされ、町も焼き払われた。 メンドンの町は1680年頃に再建された。このとき、幾つかの家族が、農耕に適した肥沃な土地を求めてメンドンの西方に住み着いた。そのあたりはメンドンからは川を3つ隔てていて、かつてのWacantuck(ワカンタック)に近い地域だった。これらの家族の中にはロバート・タフト・シニアが率いるタフト家(Taft family)もあった。 彼らが住んだ場所はメンドンの中心地から離れており、行政機関へ出向くにも不便で、やがてそれが問題になっていった。1727年に、彼らは裁判所へ、彼らの居住地をメンドンの町から分割して別の町にするように願い出た。メンドンの議会でもこの請願が全会一致で可決され、メンドンの西側の地域が分割されることになった。この地域の中心的存在だったタフト家では、その出自をイギリスのアクスブリッジ伯爵の子孫(Marquess of Anglesey)と自称していたことから、町はアクスブリッジ(Uxbridge)と命名された。このときに、ファーナム・ハウスで最初のタウンミーティングが開かれた。
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