村の発展(近世)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 15:03 UTC 版)
江戸時代には地域内を東西に貫くように甲州街道が整備された。旧版地図等によると甲州街道沿いにも古くから集落が形成されていた。幡ヶ谷は内藤新宿と下高井戸宿の中間地点にあたり、宿場町は置かれなかったが、旅人の休憩施設や茶店等が街道沿いに設置され、地域内は街道を通る旅人等で賑わっていたようである。 1653年に整備された玉川上水によって幡ヶ谷村内の一部が南北に分断されるようになり、住民が不便を被ることになった。とはいえ、村の北側全域が分断された南隣の代々木村と比較して、幡ヶ谷村は笹塚の一部が分断されたにすぎず、影響は少なかったものと思われる。 江戸時代から幡ヶ谷村は豊島郡に属しており、村内には本村・中幡ヶ谷・下町・原・笹塚の5つの字があった。村の祭りは本村・中幡ヶ谷の連合、下町・原の連合で行い、笹塚は単独で行うことが多かったという。これは、本村と中幡ヶ谷が共に村の創立に関わってたため、下町・原は共に甲州街道沿道にあるため、それぞれ関係が深く連合で祭りを行っていたのに対して、笹塚は裕福な住民が多く単独でも祭りを行えたためだという。
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