町への昇格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:21 UTC 版)
この地方では、年貢は半石半永制が採られていたため、農民が現金収入を得るための定期市場が必要だった。市場が開かれる村は、各地の物や人の集散地となり、人口が増加するとともに、交通量が増え、旅籠屋などが整備され、おのずと在郷町として発展した。元禄年間には、需要に応じて常設の店が出るようになり、活動の場を求めて他地域から移住してくる者も増えていった。早期から郡山を拠点に活動した有力商人では、寛永年間にはすでに活動していた安藤忠助家、寛文の頃に越前から移住した武田重蔵家、1675年(延宝3年)に尾張から移住した鴫原家などが知られている。 郡山村の人口は、1777年(安永6年)には、2,514人であったが、40年後の1817年(文化14年)3,566人と1,000人以上増加している。こうした発展の実情がありながら、村名のままでは商売をはじめ諸事に支障があるとした宿役人らの陳情が認められ、1824年(文政7年)に郡山村は、藩から町への昇格を許された。これにより公文書や商取引文書に郡山町と書くことができるようになり、町になるとともに人口増加が加速した。 町昇格から3年後の1827年(文政10年)の人口は、4,014人となり、1867年(慶應3年)の人口は、5,205人となっている。
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