町の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:02 UTC 版)
「ナミュール包囲戦 (1692年)」の記事における「町の陥落」の解説
1692年のナミュール包囲戦はルイ14世の長い治世においても注目に値する戦闘だった。まず、戦闘に包囲を指揮したセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンと守備を指揮したオランダ出身のメンノ・フォン・クーホルンという有名な技術将校2人が参戦した。次に、ナミュールの位置と近くの地形により包囲は困難を極めた。ナミュールの町はサンブル川北岸の低い平地にあり、周りを高地で囲まれていた。しかし、ナミュールの要塞がサンブル川南岸、マース川との合流点にある高地にあったため、フランドル地方における最強の要塞の1つとなった。 ヴォーバンは前年に秘密裏にナミュールを偵察、その防御工事の設計図を作り上げた。これら設計図に従い、フランス軍はナミュールを包囲する塹壕を掘り、いくつかの大型砲台を築いた。5月29日から30日にかけての夜には3列の塹壕が掘られ始めた。一方、ウィリアム3世は南西に進み、ナミュールに接近した。リュクサンブールは監視軍をジャンブルーから東へ進ませ、ナミュールの北にあるロンシャンまで進んだ。ウィリアム3世はメハイン川(英語版)で会戦に持ち込もうとしたが、大雨で増水してしまったため渡河できなかった。 ナミュール駐留軍の大半はスペイン軍だったが衰弱しており、その状態は悪かった。駐留軍は町を見下ろす砲台へ増援を送るためにソーティを派遣したが、効果は少なかった。ナミュールの町は大した抵抗もせずに6月5日に降伏したが、7日の朝までの停戦が合意された。この停戦の間、ナミュール駐留軍は要塞に入り、フランス軍はナミュールの町に入った。また包囲戦の間に同盟軍が高地からナミュールの町に砲撃せず、フランス軍も町から要塞を攻撃しないことで合意された。包囲戦に参加したジャン・マルタン・ド・ラ・コロニー(Jean Martin de la Colonie)は回想録で「これらの条項が合意されたのは、要塞の本当の状態に無知だからだった。というのも、要塞を落とせるのは町の方向からだけであり、それ以外の方向では難攻不落だった」と記述した。
※この「町の陥落」の解説は、「ナミュール包囲戦 (1692年)」の解説の一部です。
「町の陥落」を含む「ナミュール包囲戦 (1692年)」の記事については、「ナミュール包囲戦 (1692年)」の概要を参照ください。
- 町の陥落のページへのリンク