フィリップ王戦争
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フィリップ王戦争(フィリップおうせんそう、英語: King Philip's War)[4][注釈 1]とは、1675年6月から翌年8月にわたる先住民戦争(民族浄化)で、ニューイングランド入植者とその味方をした先住民とアメリカ先住民諸部族との間で起きた。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)を白人入植者[疑問点 ]が呼んだ名前を指す[注釈 2]。 この戦いはニューイングランドの最北端で展開し、1678年4月12日にキャスコ湾条約を結んで講和が成り立つ[6][7]。
注釈
出典
- ^ Brooks, Rebecca Beatrice (2017年5月31日). “History of King Philip's War [フィリップ王戦史]” (英語). 2021年11月12日閲覧。
- ^ Elson, Henry William (1904). “VI. Colonial New England Affairs: King Philip's War” (英語). History of the United States of America. New York: The MacMillan Company 2020年8月31日閲覧。
- ^ Cray, Robert E. Jr. (2009年). “'Weltering in their own blood': Puritan Casualties in King Philip's War” (英語). ウェストフィールド州立大学. 2024年3月25日閲覧。
- ^ a b Faludi, Susan (2007年9月7日). “America's Guardian Myths”. The New York Times 2007年9月6日閲覧。
- ^ a b Lepore 1999, pp. 5–7.
- ^ Jaime Ramon Olivares (2011). “Casco, Treaty of”. In Spencer Tucker (英語). The Encyclopedia of North American Indian Wars, 1607-1890: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. p. 134
- ^ Norton.
- ^ Silverman, pp. 298.
- ^ Silverman, pp. 295–298.
- ^ Drake, pp. 1–15.
- ^ a b c 世界の歴史21、p28
- ^ フィリップ王戦争 - ブリタニカ百科事典
- ^ Gould, Philip (Winter 1996). “Reinventing Benjamin Church: Virtue, Citizenship and the History of King Philip's War in Early National America” (英語). Journal of the Early Republic 16 (4): 645-657. doi:10.2307/3124421. JSTOR 3124421.
- ^ Schultz and Tougias.
- ^ “1675 - King Philip's War”. Society of Colonial Wars in the State of Connecticut (2011年). 2016年1月8日閲覧。
- ^ Silverman, pp. 348–353.
- 1 フィリップ王戦争とは
- 2 フィリップ王戦争の概要
- 3 その後
- 4 外部リンク
フィリップ王戦争
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「プリマス植民地」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
詳細は「フィリップ王戦争」を参照 メタコメット酋長は、「フィリップ王」の名でも知られており、マサソイトの下の息子でワンパノアグ族の酋長の座を承継し、一族の優れた調停者だった。メタコメットは、兄のワムスッタ、別名アレクサンダーの1662年の突然死によって酋長(世話役)を継ぐことになった。 戦争の原因はイギリス人入植者が増え続け、土地の要求も増えていったことだった。インディアンからの「土地購入」が増えるにつれて、インディアンは狭い領土内に制限されることになった。メタコメットの様なインディアンの調停者達は、土地が失われていくことに不満を抱き、それを遅らせるかあるいは取り戻すかする方法を探していた。特に関心が向けられたのは、スワンシーの町の建設であり、そこはワンパノアグ族の大集落マウントホープから数マイルしか離れていなかった。プリマスの議会が軍事力を使ってワンパノアグ族の土地を町の入植者に売却するよう強制し始めた。 紛争の引き金になったのは、1675年のジョン・ササモンという「祈るインディアン」の死だった。ササモンはメタコメットの助言者であり友人でもあったが、ササモンがキリスト教に改宗したことで、二人は決別していた。ササモンの殺人で告発されたのは、メタコメットの最も上位の副官の何人かだった。 インディアンの酋長に階級は無く、「上位」も「下位」もない。酋長は同じ立場であって「副官」など存在しない。すべては白人の思い込みで、酋長が「告発」されたのである。 12名のイギリス人と6名の祈るインディアンの陪審員は殺人罪のインディアン被告を有罪とし死刑を宣告した。今日、メタコメットの部下が実際に殺人を犯したのかそうではないのかという議論が持ち上がっている。そもそも酋長(世話役)であるメタコメットに、「部下」など存在しない。インディアン社会に「上司」や「部下」など命令系統は存在しない。 ワンパノアグ族はマウントホープに近いその本拠で戦いの準備を始めており、イギリス人農園を襲ってその資産の略奪を始めた。これに反応してジョサイア・ウィンスロー知事は民兵隊を招集し、ワンパノアグ族の本拠に向けて進軍を始めた。戦争が始まった。 ワンパノアグ族は、身代金を取るために武装していない女性や子供を攻撃した。そのような攻撃の一つで、メアリー・ローランドソンを捕まえ、その小さな子供達を殺した。捕虜になったローランドソンの備忘録が当時のインディアンの文化について多くの情報を歴史家に与えることになった。 戦争は1675年の残りと翌年まで続いた。イギリス人はインディアンを会戦に持ち込もうとしたが、インディアンがこれを避けてゲリラ戦の形態を採ったので、イギリス人は常に面食らうばかりだった。ベンジャミン・チャーチ大尉は友好的なインディアンの協力を求める動きを続けており、メタコメット達のやり方であるとしてもインディアンとの戦い方を学ぼうとしていたが、どのインディアンも潜在的な敵と考え信用しないプリマスの指導者達にそのやり方を拒絶されていた。最終的に、ウィンスロー知事とプリマスの軍事指導者ウィリアム・ブラッドフォード少佐(故人となったウィリアム・ブラッドフォード知事の息子)が折れて、チャーチにイギリス人とインディアンの連合軍を作る許可を与えた。チャーチはサコネットとの同盟を結び、共同軍で大きな戦いを避けまくっていたメタコメットの追跡を始めた。1676年の7月中、チャーチの部隊は何百ものインディアンを、大きな戦闘もなく捕まえたが、メタコメットは逃れ続けた。チャーチはイギリス側に付くことに同意したインディアン捕虜に恩赦を与える許可を得たので、その部隊は大きく脹れ上がった。メタコメットはポカセットのインディアンに殺された。戦争は間もなく圧倒的なイギリス側の勝利で終わった。 この戦争でイギリス人成人男性人口の8%が死んだと見積もられているが、どこから見ても大きな数字である。しかしインディアンに与えた影響はもっと大きかった。多くの者が殺され、逃亡し、奴隷として他所に売られたので、ニューイングランドのインディアン人口は60ないし80%は減ってしまった。
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フィリップ王戦争
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「エドマンド・アンドロス」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
アンドロスはコネチカット遠征の後、イロコイ族との関係を確立するためにその領内に向かった。アンドロスは歓待され、オランダがイロコイ族に武器を供給していた慣習を継続すると合意した。この行動はフランスのイロコイ族との外交関係を鈍らせる効果があった。ニューイングランドではフィリップ王(ワンパノアグ族指導者メタコメットが英語ではこう呼ばれていた)と同盟するインディアンにアンドロスが武器を供給したことへの非難に繋がった。事実アンドロスはロードアイランド植民地に火薬を供給し、それが1675年12月にはナラガンセット族に対する大湿地戦闘で使われた。具体的にフィリップと同盟する部族へ弾薬を売ることが違法とされた。この非難はアンドロスとマサチューセッツの指導者達との関係を悪化させたが、アンドロスはロンドンからの承認で行動しているに過ぎなかった。 アンドロスはイロコイ族との会合で「コーラー」という名を与えられ、それがその後のニューヨーク植民地総督をイロコイ族が呼ぶ時の名前になった(同様にフランスの総督は「オノンティオ」と呼ばれた)。もう1つの成果としてオールバニにインディアン担当局を設立したことであり、ロバート・リビングストンをその初代局長とした。 フィリップはその冬、マサチューセッツ西部のバークシャーズに居ることが分かっており、ニューイングランドの人民はアンドロスが彼を隠していると非難した。19世紀の歴史家ジョン・フィスクはフィリップがイロコイ族を紛争に引き込もうとしたものの、イロコイ族が応じず、その代わりにモヒカン族をオールバニ攻撃という観望で引き込むことになった。アンドロスがニューヨークの軍隊をマサチューセッツに送ってフィリップを攻撃させるという提案が拒絶された。それはコネチカット川までの主権主張を再度行うための策略だと考えられた。その代わりにオールバニ地域のモホーク族がフィリップと戦闘し、東に追いやった。コネチカット当局が後にアンドロスの支援を要請したとき、アンドロスはコネチカットがそうするのは以前の行動を考えると「奇妙な」ことだと答え、援助を拒否した。 1676年7月、アンドロスはモヒカン族などインディアンの戦争難民の避難所をシャハティコークに設立した。1676年、紛争はニューイングランド南部で収束したが、北部のアベナキ族とイングランド人開拓者の間の摩擦は続いていた。このことで、アンドロスはヨーク公の領であるメインに軍隊を送り、ペマキッド(現在のブリストル)に砦を設立した。アンドロスはマサチューセッツの漁師が魚を乾すためにヨーク公の土地を利用することを制限したので、漁師達を悩ませることになった。 1677年11月、アンドロスはイングランドに戻り、その次の年をそこで過ごすことになった。この間に総督としての業績を評価されてナイトに叙せられ、貿易委員会に出席した。その席ではマサチューセッツ湾植民地の代理人がその植民地認証を弁護し、植民地の現状について詳細な説明を行った。
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フィリップ王戦争
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「マサチューセッツ湾植民地」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
1675年、イギリス人侵略者たちに対して、地元のインディアン部族であるワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共に決起して、プリマス入植地を攻撃した。入植地側は、ワンパノアグ族と敵対するマヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け、領土と生活圏を巡っての全面戦争となった。 白人たちはワンパノアグ族のメタコメット酋長を、ワンパノアグ連合の「王」、「指導者」だと勘違いしていたので、合議による蜂起をメタコメットが主導したものとみて、メタコメットにつけた「フィリップ王」というあだ名を取ってこの植民地戦争を「フィリップ王戦争」と呼んだ。 ワンパノアグ連合には、同じく白人入植者によって虐殺され生活の場を奪われたニプマック族やナラガンセット族も参戦し、マサチューセッツ湾植民地とコネチカット植民地にまたがるニューイングランド一帯の一大戦争に発展した。激しい戦闘が繰り広げられ、双方大規模な打撃を受ける。1676年8月12日、調停者であるメタコメット酋長が戦死し、侵略者側が勝利する形で戦争は終結する。 この戦いで4000人以上のインディアンが犠牲となり死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。 インディアンの酋長は「調停者」であって、インディアンの社会に「司令官」はいないという、彼らの文化は白人には理解できなかった。侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。インディアンの合議制民主主義社会は、イギリスの君主制封建主義社会に敗れたのである。
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フィリップ王戦争
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「ベンジャミン・チャーチ」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
チャーチはプリマス植民地総督のジョサイア・ウィンスローの主たる副官だった。大尉に任官され、ニューイングランドのフロンティアでワンパノアグ族、ニプマク族、ポダンク族インディアンに対抗したフィリップ王戦争(1675年-1678年)を戦った。この期間に総督の直接指揮下に属さない1個中隊を指揮したことで良く知られている。チャーチの部下は森や湿地でインディアンの宿営地を襲撃することに初めて成功した植民地部隊だった。その前の10年間、植民地人はインディアンからの防衛を行ったが、その関係は概して1675年まで友好的なものだった。 チャーチは最終的に、当時の伝統的な軍隊戦術がうまく行かないときに、インディアンの徴兵を認められた。中立あるいは元の敵対的だったインディアンを従属させ、自隊に加わるよう説得し、非正規兵として巧みに働かせた。これらインディアン兵士の中には、戦争の前にキリスト教徒に改宗する者もいた。彼らは祈るインディアンと呼ばれた。教会員に組み込まれた後、森や湿地でインディアンの跡を付け、その宿営地に対する襲撃や、待ち伏せを効果的に行った。
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フィリップ王戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 09:19 UTC 版)
「ワムスッタ」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
1656年に、白人入植者から弟メタコメットと共に「アレキサンダー王」と「フィリップ王」のあだ名をつけられた。白人は入植地を拡大して行こうとしていたので、ワムスッタは父マサソイトが白人と築いた同盟を維持するのは微妙な状態に置かれていた。そしてイギリス人は植民地問題を解決するため、1662年プリマスのイギリス当局はワムスッタをプリマス入植地に呼び出した。白人は「大酋長」のワムスッタと盟約すれば、ワンパノアグ族全員がこれに従うだろうと考えたからである。 ワムスッタはインディアン文化の基本である、合議の話し合いの中で、白人がかつて父との間で結んだ条約に異議があるとイギリス当局に申し出た。インディアンから見れば、マサソイトが結んだ「条約」は、あくまでマサソイトと白人の個人的な取り決めである。またインディアンに「土地を売り買いしたり譲渡する」という文化は存在しなかったので、そもそも彼らはこの条約を理解していなかった。 しかしワムスッタはプリマスでの間に病気になり、村に帰る途中に謎の死を遂げてしまう。ワンパノアグ族側は白人がワムスッタを毒殺したと主張し激しく怒った。ワムスッタの死で弟のメタコメットが新酋長になり、部族員は合議の結果、白人に対して戦いを挑んだ。白人はメタコメットを「首謀者」だと誤解し、これを酋長の渾名を採って「フィリップ王戦争」と名付けた。「フィリップ王戦争」の原因は、白人のインディアン文化に対する無理解である。
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