フィリップ王戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 17:05 UTC 版)
フィリップ王戦争 King Philip's War |
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インディアン戦争中 | |||||||
![]() 先住民の襲撃(着色木版画、19世紀) |
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衝突した勢力 | |||||||
指揮官 | |||||||
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戦力 | |||||||
約3400人 | 約3500人 | ||||||
被害者数 | |||||||
2000人強[2] | 約2800人強[3] |
フィリップ王戦争(フィリップおうせんそう、英語: King Philip's War)[4][注釈 1]とは、1675年6月から翌年8月にわたる先住民戦争(民族浄化)で、ニューイングランド入植者とその味方をした先住民とアメリカ先住民諸部族との間で起きた。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)を白人入植者[疑問点 ]が呼んだ名前を指す[注釈 2]。 この戦いはニューイングランドの最北端で展開し、1678年4月12日にキャスコ湾条約を結んで講和が成り立つ[6][7]。
概要
[要出典] 入植地をニューイングランドと名付けたイギリス白人は、ワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来た。しかし入植地の拡大はエスカレートし、やがてはアメリカ先住民の領土をよこせ、と要求し始めた。
先住民にとって土地は共有財産であり、誰のものでもなかった。しかし入植者は、先住民全てに立ち退くよう排他的な要求をした。当然ながら先住民は激怒した。また入植者は「公平」に「条約」でこの取り決めようとして、その署名者に先住民の酋長を選んだ。
しかし入植者の独任制と違い、先住民社会は合議制である。元より部族を代表する首長や君主は存在しない。酋長はあくまで調停者であって、部族を代表する者ではないのだが、入植者はこれを理解せず、酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んだが、これは全くの思い違いである。
ワンパノアグ族は本来、白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年には慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ入植者を助け、マサソイト酋長が平和と友情による条約を結んでいる。マサソイト酋長は1621年の秋、感謝祭に列席した際にも多くの食料を持参している。
しかし急激に増加した白人の入植者は、彼ら先住民の土地を売るように要求したり、キリスト教への改宗強制や、先住民に不利な裁判を行い、先住民の白人に対する反感を買い始めた。先住民に「土地を売る」という概念はそもそも無かったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとする白人の思考は先住民共同体には理解不可能だった。
白人と友好を築いてきたマサソイト酋長が死ぬと、状況はますます悪化する。部族の新酋長は長男のワムスッタ(英語名アレキサンダー)が後継するが、白人側が拡大する入植地は先住民が住む土地にまで及んだ。そのためワムスッタは「調停者」たる先住民の酋長の役目として、白人が先代酋長と結んだ土地の譲渡と和平の取り決めにプリマス入植地で異議を申し立て、侵略行為を止めるよう説得を試みたが、入植地から村へ帰る途中でなぜか体調を崩し謎の死を遂げてしまう(毒殺されたとも言われる)。
新たにマサソイトの二男メタコメット(当時24歳、c. 1638-1676)が1662年に新酋長に選ばれると、白人との関係はさらに悪化していった。メタコメット、通称メタコムは兄同様に調停者として最大の努力を払うが、入植者には1671年の条約を守るなら先住民の銃を全て差し出せと迫られるなど繰り返し裏切りにあうと、父が築いた友好関係を捨てる[8]。ワンパノアグ族が1名殺され、同族の3名が事件の犯人扱いをされてプリマス植民地で縛り首になった1675年、入植者と先住民の間の緊張はますます高まる[9]。
誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は合議の結果、部族の土地を侵す入植者に対して、ついに宣戦布告の準備を始めた。ジョン・ササモンは前者の一員であるが、1675年6月25日にキリスト教に改宗し、ハーバード大学の先住民学校で学んだ人物で、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が入植者に対して戦争準備をしている」と通報した後、別部族の先住民に殺されてしまった。 それから半年、先住民の襲撃隊はマサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット、メインにわたる農場と村を襲撃し、植民地民兵が報復した。どちらの味方もせずにいたナラガンセットだが、中には植民地の要塞や民兵を襲撃する者が現れ、植民地の指導者から平和条約違反だとみなされた[要出典]。
戦闘
ニューイングランドの植民地群は民兵1000名と先住民の同盟者150名を集めると、かつて召集したことのない規模の軍隊を編成した。ジョサイア・ウィンスロー総督は1675年11月、ナラガンセット攻撃を指揮した。ロードアイランド植民地に点在する先住民の集落を探しては焼き討ちし、ナラガンセットの主要な砦を攻めると、戦意はグレート・スワンプの戦闘で最高潮に達した。ナラガンセット諸族で殺害された者はおよそ600名に達し、サチェムを務めたカノンチェトが民族連合の首長を引き継ぐ。マサチューセッツ湾、プリマス、ロードアイランドの植民地に奪われた土地を取り戻し、進みながら沿道のタウンに火を放っていき、1676年3月にはプロヴィデンスを焼き落とした。
この戦争は1年少々で決着を見たが、17世紀のニューイングランド地方における最大の惨事であり、アメリカ植民地時代の歴史で最も悲惨な戦いと受け止める人は多い[10]。 メタコメット酋長らワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んだ部族と協力してプリマス入植地を攻撃した。攻められた入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。先住民側にはニプマック族やナラガンセット族も参戦し、プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺し、怨みを買っていた。
戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を巻き込み、ニューイングランド全域に及んだ[11]。先住民側は52のタウンを襲撃し、12のタウンを壊滅させた[11]。1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵、ミニットマンを活用し反撃[11][注釈 3]。入植者に対して反旗を翻し戦いを挑んだ先住民のうち、ナラガンセット族のカノンチェト酋長[注釈 4]は1676年4月3日に逮捕、処刑される。ワンパノアグ族のメタコメット酋長はマウントホープへ脱出するが、3ヵ月後の8月12日に民兵に殺され、侵略者側が勝利する形で戦争は終結する。
その後
プリマスからロードアイランド植民地一帯では、兵役年齢の全男性の10分の1を失う人口激減のせいで、経済は根底から覆された[13][注釈 5]。ニューイングランド地方のタウンは、過半数がこの武力衝突に巻き込まれた[15]。ワンパノアグ族と同盟の部族は数千人が公開処刑にされたり、奴隷に身を落とした。ワンパノアグ族は土地を全て失った[16]。
戦死したメタコメット酋長の遺体は入植者達により八つ裂きにされ、槍の先に突き刺した首は、24年にわたり入植地の村に飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとする先住民達は、奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされた。「司令官」がいないという先住民の文化は、入植者には理解できなかった。侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。
フィリップ王戦争は、アメリカ人に独立の意識が芽生えるきっかけとなった。ニューイングランド地方の入植者はヨーロッパ政府や軍からの支援を受けなくても自力で敵に立ち向かえる自信を得て、自分たちを本国イギリスから切り離し、別個の集団意識を抱き始める[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ Brooks, Rebecca Beatrice (2017年5月31日). “History of King Philip's War [フィリップ王戦史]” (英語). 2021年11月12日閲覧。
- ^ Elson, Henry William (1904). “VI. Colonial New England Affairs: King Philip's War” (英語). History of the United States of America. New York: The MacMillan Company 2020年8月31日閲覧。
- ^ Cray, Robert E. Jr. (2009年). “'Weltering in their own blood': Puritan Casualties in King Philip's War” (英語). ウェストフィールド州立大学. 2024年3月25日閲覧。
- ^ a b Faludi, Susan (2007年9月7日). “America's Guardian Myths”. The New York Times 2007年9月6日閲覧。
- ^ a b Lepore 1999, pp. 5–7.
- ^ Jaime Ramon Olivares (2011). “Casco, Treaty of”. In Spencer Tucker (英語). The Encyclopedia of North American Indian Wars, 1607-1890: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. p. 134
- ^ Norton.
- ^ Silverman, pp. 298.
- ^ Silverman, pp. 295–298.
- ^ Drake, pp. 1–15.
- ^ a b c 世界の歴史21、p28
- ^ フィリップ王戦争 - ブリタニカ百科事典
- ^ Gould, Philip (Winter 1996). “Reinventing Benjamin Church: Virtue, Citizenship and the History of King Philip's War in Early National America” (英語). Journal of the Early Republic 16 (4): 645-657. doi:10.2307/3124421. JSTOR 3124421.
- ^ Schultz and Tougias.
- ^ “1675 - King Philip's War”. Society of Colonial Wars in the State of Connecticut (2011年). 2016年1月8日閲覧。
- ^ Silverman, pp. 348–353.
参考文献
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主な執筆者の姓の順。
- 五十嵐武士、福井憲彦『アメリカとフランスの革命』中央公論社〈世界の歴史 21〉、1998年3月。ISBN 4-12-403421-0
- フィリップ・ジャカン『アメリカ・インディアン:奪われた大地』(創元社〈「知の再発見」双書;20〉、1992年) ISBN 4-422-21070-X、doi:10.11501/13288420。
- 洋書
- Cohen, Morris R.、Cohen, Felix S.『Readings in Jurisprudence and Legal Philosophy』(英語)(Prentice-Hall、1953年、1951年頃〈Prentice-Hall law school series〉、1952年)NDLJP:000006157643。
- ラリー・マクマートリー『Crazy Horse』(英語)(マサチューセッツ州イプスウィッチ:Great Neck Publishing(発行)、Penguin Lives(発売)、1999年)電子書籍、 ISBN 9780786506798, 9780670882342, 0786506792, 0670882348、 OCLC 942662355。
関連資料
発行年順。本文の典拠に未使用のもの。
- 岩田強「最初の感謝祭とフィリップ王戦争」『異文化の出会い : 歴史・文学・観光の観点から』京都光華女子大学国際英語学科 編(大阪教育図書、2008年)<EC211-J41>、 ISBN 978-4-271-11775-9。NDLJP:000009379464。
- 三浦永光「第3章Ⅲ フィリップ王戦争」『ジョン・ロックとアメリカ先住民 : 自由主義と植民地支配』(御茶の水書房、2009)<A27-J11>、 ISBN 978-4-275-00815-2。NDLJP:000010085044。
- ジェイムズ・ウォリス・イーストバーン(James_Wallis_Eastburn)、ロバート・チャールズ・サンズ『ヤモイデン : もうひとつのフィリップ王戦争』中村正廣 訳(中部日本教育文化会、2010)<KS155-J60>、
ISBN 978-4-88521-853-8。NDLJP:000010901204。
- 原題『Yamoyden, a Tale of the Wars of King Philip』
- Eastburn, J. W. & Sands, R. C. (1820). Yamoyden a tale of the wars of king philip: in six cantos. (James Eastburn Clayton & Kingsland Printers. [発行地不明]、1971年)(英語)マイクロフォーム、 OCLC 1013454052。
- 原題『Yamoyden, a Tale of the Wars of King Philip』
- 加藤 恭子「フィリップ王戦争」『ソフィア』第43巻第4号(通号 172号)、616-624頁、ソフィア編集委員会 編(上智大学、1995年)<Z22-350>。NDLJP:000000014002。
- 三浦慎悟『動物と人間 : 関係史の生物学』(東京大学出版会、2018年)<RA411-M4>、 ISBN 978-4-13-060232-7。NDLJP:029360426
- 小澤奈美恵「フィリップ王戦争地図(1675~1676年)」『アメリカン・ルネッサンス期の先住民作家ウィリアム・エイプス研究 : 甦るピークォット族の声』大島由起子、小澤奈美恵 訳(明石書店、2021年)<KS139-M126>、
ISBN 978-4-7503-5260-2, 4750352608。NDLJP:031667871、全国書誌番号:
23595006。
OCLC 1268461280。
- ウィリアム・エイプス Apess, William(ウィキデータ)。
関連項目
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外部リンク
フィリップ王戦争
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「プリマス植民地」の記事における「フィリップ王戦争」の解説
詳細は「フィリップ王戦争」を参照 メタコメット酋長は、「フィリップ王」の名でも知られており、マサソイトの下の息子でワンパノアグ族の酋長の座を承継し、一族の優れた調停者だった。メタコメットは、兄のワムスッタ、別名アレクサンダーの1662年の突然死によって酋長(世話役)を継ぐことになった。 戦争の原因はイギリス人入植者が増え続け、土地の要求も増えていったことだった。インディアンからの「土地購入」が増えるにつれて、インディアンは狭い領土内に制限されることになった。メタコメットの様なインディアンの調停者達は、土地が失われていくことに不満を抱き、それを遅らせるかあるいは取り戻すかする方法を探していた。特に関心が向けられたのは、スワンシーの町の建設であり、そこはワンパノアグ族の大集落マウントホープから数マイルしか離れていなかった。プリマスの議会が軍事力を使ってワンパノアグ族の土地を町の入植者に売却するよう強制し始めた。 紛争の引き金になったのは、1675年のジョン・ササモンという「祈るインディアン」の死だった。ササモンはメタコメットの助言者であり友人でもあったが、ササモンがキリスト教に改宗したことで、二人は決別していた。ササモンの殺人で告発されたのは、メタコメットの最も上位の副官の何人かだった。 インディアンの酋長に階級は無く、「上位」も「下位」もない。酋長は同じ立場であって「副官」など存在しない。すべては白人の思い込みで、酋長が「告発」されたのである。 12名のイギリス人と6名の祈るインディアンの陪審員は殺人罪のインディアン被告を有罪とし死刑を宣告した。今日、メタコメットの部下が実際に殺人を犯したのかそうではないのかという議論が持ち上がっている。そもそも酋長(世話役)であるメタコメットに、「部下」など存在しない。インディアン社会に「上司」や「部下」など命令系統は存在しない。 ワンパノアグ族はマウントホープに近いその本拠で戦いの準備を始めており、イギリス人農園を襲ってその資産の略奪を始めた。これに反応してジョサイア・ウィンスロー知事は民兵隊を招集し、ワンパノアグ族の本拠に向けて進軍を始めた。戦争が始まった。 ワンパノアグ族は、身代金を取るために武装していない女性や子供を攻撃した。そのような攻撃の一つで、メアリー・ローランドソンを捕まえ、その小さな子供達を殺した。捕虜になったローランドソンの備忘録が当時のインディアンの文化について多くの情報を歴史家に与えることになった。 戦争は1675年の残りと翌年まで続いた。イギリス人はインディアンを会戦に持ち込もうとしたが、インディアンがこれを避けてゲリラ戦の形態を採ったので、イギリス人は常に面食らうばかりだった。ベンジャミン・チャーチ大尉は友好的なインディアンの協力を求める動きを続けており、メタコメット達のやり方であるとしてもインディアンとの戦い方を学ぼうとしていたが、どのインディアンも潜在的な敵と考え信用しないプリマスの指導者達にそのやり方を拒絶されていた。最終的に、ウィンスロー知事とプリマスの軍事指導者ウィリアム・ブラッドフォード少佐(故人となったウィリアム・ブラッドフォード知事の息子)が折れて、チャーチにイギリス人とインディアンの連合軍を作る許可を与えた。チャーチはサコネットとの同盟を結び、共同軍で大きな戦いを避けまくっていたメタコメットの追跡を始めた。1676年の7月中、チャーチの部隊は何百ものインディアンを、大きな戦闘もなく捕まえたが、メタコメットは逃れ続けた。チャーチはイギリス側に付くことに同意したインディアン捕虜に恩赦を与える許可を得たので、その部隊は大きく脹れ上がった。メタコメットはポカセットのインディアンに殺された。戦争は間もなく圧倒的なイギリス側の勝利で終わった。 この戦争でイギリス人成人男性人口の8%が死んだと見積もられているが、どこから見ても大きな数字である。しかしインディアンに与えた影響はもっと大きかった。多くの者が殺され、逃亡し、奴隷として他所に売られたので、ニューイングランドのインディアン人口は60ないし80%は減ってしまった。
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