入植者の裏切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 03:26 UTC 版)
1675年から1676年の間に、メタコメット酋長は入植者がワンパノアグ族の土地を奪い、生活の基盤である森や猟場を荒らしてはワンパノアグ族を殺害し、女性や子供を奴隷として売り飛ばしたとしてイギリス植民地政府に抗議した。 しかし植民地側がワンパノアグ族の抗議を無視したため、部族はプリマス入植地を攻撃した。白人はこれを「フィリップ王戦争」と呼んでいるが、上述したようにインディアンの酋長は「部族長」ではないし、「戦争指導者」でもない。彼らは合議で侵略者との戦いを選んだのであって、メタコメット個人がこれを率いたわけではない。 この戦いでは、同じアルゴンキン諸部族のニアンティック族(Niantic)、ペナクック族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)もワンパノアグ族と同盟を結び参戦した。攻撃されたプリマス入植地の植民者は入植地を守るため、銃や剣や大砲や点火棒を振りかざし、アルゴンキン諸部族と敵対していたモヒカン族とモホーク族を味方に付け、ワンパノアグ族を襲ってこれを虐殺した。この戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが死んだ。 メタコメット酋長を含むほとんどのワンパノアグ族は虐殺され、メタコメット酋長の妻と8歳の息子はバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばされた。さらに、メタコメット酋長の遺体は八つ裂きにされ、頭蓋骨は槍の先に突き刺されて入植者の村に飾られた。1620年には約5000人と推定されるワンパノアグ族の人口は、フィリップ王戦争の後には約400人にまで激減した。 侵略者たちはメタコメット酋長を「戦争を率いた指導者」だと思い込んでいたから、このような凄惨な仕打ちを彼だけでなくその家族にまで加えたのである。
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