入植者の増加
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1919年(大正8年)11月、当地への道路開削が許可され(のちに村道となる)、村の補助を受けてワッカウエンベツ川沿いに蛇行する形ながら、2年後の1921年(大正10年)6月に開通にこぎつけた。こうして、「開墾後3年で3町歩以上の成功者と契約」との条件で小作人を募集することとなり、翌1922年(大正11年)から1924年(大正13年)にかけて片岡の共同名義人の角谷を含む7戸が入植することとなった。 1928年(昭和3年)には村内で行政区の再編が行われているが、このときにワッカウエンベツは行政区として新設されている。 1930年(昭和5年)4月には30戸が入植した。このころ、前述の泉谷は郷里の十津川で当地への入植を宣伝していた。このころの村内各地の未開地への入植者は、道の拓殖計画に基づき1戸300円の移住補助金・50円の住宅補助が行われた。当時の経緯については1961年(昭和36年)当地の古老と村長の座談会席上で次のように述べられている。 長屋治平 その当時、北海道の開拓は、内地のほうから一人で来ても駄目だと、所謂北海道の拓殖計画によりまして、とにかく内地の方から人を入れてくるのが北海道の開拓だった。そういうわけで対象の末期から昭和の初めにかけまして、とにかく、府県の方から北海道に人を入れてくるということが、道としての先決問題でもあった。ところが、人を入れる余地がどこにもなかった。そこへもってきて、とにかく、各町村でも人をできるだけ入れたいという計画もあったんで、その当時、大正14年と思いますが、道庁の方から土地の選定に入った。そして共和から板谷、大和にかけてずうっと選定しまして(中略)いく日もかかってそこの拓殖に人を入れて生活ができるかどうかということをたずねた。ところが(中略)大和の方で50何戸(中略)そう選定いたしまして、内地の方から入れてきた。そのうち大和というのは今は死んでおりませんが、泉谷という人があそこにおりまして(中略)あの人が奈良県の大和に行きまして大いに宣伝よろしくいたしまして、大和へ入ったのと、もう一つは昭和3年・4年・5年と3年に入ったんです。 岡田村長 奈良県から直接来たんですか。 長屋治平 そうです。それからね、岐阜県からも来てますよ。岐阜県のものは、昭和3年に入った人が多いです。 — 『中川町史』 (1975, p. 538) この1930年(昭和5年)には地区内に志文内尋常小学校稚遠別教授所が設置され、当地でも初等教育が行われるようになった。その後も入植者は増え1932年(昭和7年)までに前述の30戸と合わせて42戸が当地の高台や平坦部に入植した。
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