入植者の増加とは? わかりやすく解説

入植者の増加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:12 UTC 版)

大和 (中川町)」の記事における「入植者の増加」の解説

1919年大正8年11月当地への道路開削許可され(のちに村道となる)、補助受けてワッカウエンベツ川沿い蛇行する形ながら、2年後1921年大正10年6月開通こぎつけた。こうして、「開墾後3年で3町歩上の成功者契約」との条件小作人募集することとなり、翌1922年大正11年)から1924年大正13年)にかけて片岡共同名義人角谷を含む7戸が入植することとなった1928年昭和3年)には村内行政区再編が行われているが、このときにワッカウエンベツは行政区として新設されている。 1930年昭和5年4月には30戸が入植したこのころ前述泉谷郷里十津川当地への入植宣伝していた。このころ村内各地未開地への入植者は、道の拓殖計画に基づき1戸300円の移住補助金50円住宅補助が行われた。当時経緯については1961年昭和36年当地古老村長座談会席上次のように述べられている。 長屋治平 その当時北海道開拓は、内地のほうから一人来ても駄目だと、所謂北海道拓殖計画よりまして、とにかく内地の方から人を入れてくるのが北海道開拓だった。そういうわけで対象末期から昭和初めにかけまして、とにかく、府県の方から北海道に人を入れてくるということが、道として先決問題でもあった。ところが、人を入れ余地がどこにもなかった。そこへもってきて、とにかく、各町村でも人をできるだけ入れたいという計画もあったんで、その当時大正14年思いますが、道庁の方から土地選定入った。そして共和から板谷大和にかけてずうっと選定しまして(中略)いく日もかかってそこの拓殖に人を入れて生活ができるかどうかということたずねた。ところが(中略大和の方で50何戸(中略)そう選定いたしまして内地の方から入れてきた。そのうち大和というのは今は死んでおりませんが、泉谷という人があそこにおりまして(中略あの人奈良県大和行きまして大い宣伝よろしくいたしまして、大和入ったのと、もう一つ昭和3年4年5年3年入ったんです。 岡田村奈良県から直接来たんですか。 長屋治平 そうです。それからね、岐阜県からも来てますよ。岐阜県のものは、昭和3年入った人が多いです。 — 『中川町史』 (1975, p. 538) この1930年昭和5年)には地区内に志文尋常小学校稚遠別教授所が設置され当地でも初等教育が行われるようになったその後入植者増え1932年昭和7年)までに前述30戸と合わせて42戸が当地高台平坦部に入植した

※この「入植者の増加」の解説は、「大和 (中川町)」の解説の一部です。
「入植者の増加」を含む「大和 (中川町)」の記事については、「大和 (中川町)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「入植者の増加」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「入植者の増加」の関連用語

入植者の増加のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



入植者の増加のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大和 (中川町) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS