軍制と文化とは? わかりやすく解説

軍制と文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:30 UTC 版)

十字軍」の記事における「軍制と文化」の解説

十字軍国家」も参照 平時において十字軍成果維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国され4つ十字軍国家エルサレム王国トリポリ伯国アンティオキア公国エデッサ伯国においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れイスラム教徒囲まれ最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては当初西欧と同じ封建制による貴族騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍参加した騎士多く帰国するなど当初から軍事力不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民求められたが、1101年出発したこの武装移民団陸路移動途中でイスラム勢力によって粉砕され以後大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼してやってきた人々移民としてそのまま居住するうになることは多く西欧系の住民補充続いていた。1120年代からは入植者の増加始まり1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人人口10万人から12万人にまで膨れ上がりヨーロッパ系入植新村建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系全人口の20%程度とどまりイスラム教徒対抗する軍事力基盤とするには不足であったことに違いはない。 これを補うために作り出されたのが騎士修道会騎士団)であり、1119年創設されテンプル騎士団1113年認可され聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1199年公認されドイツ騎士団三大騎士団エルサレム十字軍国家内に駐屯し実質的な常備軍としてキリスト教諸国家の防衛当たった。 この地方土着した貴族たちはイスラム文化少しずつ受け入れ次第イスラム融和的姿勢をとるようになっていった。これに対し西方から新たに十字軍してやってきた将兵イスラム敵対的な態度をとり、第2回十字軍時に十字軍国家同盟関係にあったダマスカス攻撃するなど現地事情理解せず軍事行動起こすことも多く両者十字軍内でもしばしば対立起こしている。

※この「軍制と文化」の解説は、「十字軍」の解説の一部です。
「軍制と文化」を含む「十字軍」の記事については、「十字軍」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「軍制と文化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「軍制と文化」の関連用語

1
2% |||||

軍制と文化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



軍制と文化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの十字軍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS