軍制・戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:30 UTC 版)
中国の歴史 先史時代 古国時代(三皇五帝) (黄河文明・長江文明・遼河文明) 夏 殷 周(西周) 周(東周) 春秋時代 戦国時代 秦 漢(前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋) 十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉) 梁 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 梁(後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周) 五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋) 金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国(台湾) 春秋時代は「宗法」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのは晋・楚・斉ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、周は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。 軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる(鉄は戦国時代から使われ出す)。 この頃の主な戦争は兵車戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。 また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っていた。 春秋時代以降見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。 それに、この時代特有の光景も見られる。たとえば、「鄢陵の戦い」でのことである。晋の大夫・郤至が敵国である楚の共王を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ、走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主厲公の車右である欒鍼は、敵軍の子重(公子嬰斉)の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため厲公に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「礼」を重んじた戦が展開されたのがこの時代である。戦国時代からは、この光景は見られず戦における「礼」は消失した。
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