せい‐か【西夏】
せいか 【西夏】
西夏
西夏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:41 UTC 版)
「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「西夏」の解説
宋や遼に隣接する国家。東西交易における重要な地域のため、梁山泊は韓成を外交官として派遣し国交を結ぼうとする。表面上は穏やかに見えるが、朝廷内部では権力争いが繰り広げられている。史実では李乾順が手腕を発揮して宋・遼の衰退に乗じて国土を拡げ、経済的にも発展をとげた時期にあたる。 李乾順 (楊令伝)西夏の皇帝。暗君ではないが二人の皇子に同じ名前を付けて政情を混乱させるなど不可解な行動をとる。政治に口を挟むことをしなかったが李仁考や李桂参の死後、政治に関与し梁山泊を正式な国家と認めて交易の許可を下す。だが利益を国庫ではなく皇室の財に加えることで私腹を肥やしている。史実では金と手を組んで遼を滅亡させた。 李仁孝 (楊令伝)西夏の若き皇太子。かつて遼に赴いたことがあり、蕭珪材とも交流がある。西域への交易路開拓を求めてやって来た韓成と会見する。側近の奎道と共に、交易の利を国庫に入れるべきとして政治に積極的に関与していたが毒殺される。 李仁孝 (楊令伝)西夏の皇子。同じ名前なので紛らわしいが、上記の李仁孝とは別人。腹違いの兄弟にあたるが、同じ名前であるがゆえに後宮の跡目争いの火種となっている。なお、史実の李仁孝と生まれが同年で兄の仁考が作中で死亡したため、彼が後の西夏皇帝の仁宗となる。 李憲光 (楊令伝)西夏の丞相。梁山泊の国使としてやって来た韓成と会見し、李仁考と引き合わせる。梁山泊のことを以前から調査しており、ある程度のことは把握している。梁山泊との交易で西夏に利益をもたらそうとする。李仁孝や奎道が政治に関与してくることを内心では快く思っていなかった。 李桂参 (楊令伝)李乾順の兄だが病弱だったため帝位を逃した。西涼府を拠点に非主流派を集めて政治に影響を及ぼす。李憲光らの勢力拡大を恐れて梁山泊の交易を妨害しようとしたが、韓成らに皇太子暗殺計画の証拠を握られたため交易の許可を下す。李仁孝の毒殺後、公孫勝・載宗らの手で秘密裏に暗殺される。 奎道 (楊令伝)李仁考の側近。李憲光の後を継ぐ将来の丞相として期待されていたが、李仁考毒殺の責任を取る形で処断される。
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西夏
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西夏は、東京興慶府を都とし、西京西平府を陪都とした。東京興慶府は現在の寧夏回族自治区銀川市である。
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西夏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
タングート族は唐代より甘粛方面に居住しており、その勢力の中心となったのがオルドス地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。その首長である拓跋思恭は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。 平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、これを認められず次第に反抗的になってくる。 北漢滅亡後の980年に李継捧が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。これに不安を感じた李継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、李継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の李継遷がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。李継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、1002年に霊州を陥落させて西平府 と改名して、ここに遷都した。 1003年に李継遷が戦死して李徳明が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが澶淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので1005年に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。李徳明は遼からも同じ西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した李徳明は西のウイグルを攻める。 1031年に李徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父の李徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である」と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。錦や絹がどうしたというのですか」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域 を全て支配下に入れ、1038年に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。 宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、以下のような条件で1044年に和議が結ばれた(慶暦の和議)。 西夏は皇帝号を止めて宋に臣として仕える。 宋から西夏に絹13万・銀5万・茶2万の歳賜が送られる。その他に夏国主の誕生日などに下賜され、合計で絹15万3000・銀7万2000・茶3万となる。 しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。王安石時代の1072年には吐蕃を討ち、ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。 宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。
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