西夏学の発展(1908年から1930年代)
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現存する西夏語のテキストと碑文の不足、特に西夏語の辞書や語彙集の欠如は、学者がブッシェルとモーリスによる西夏文字の解読に関する予備的研究を超えることが困難であることを意味した。1908年、ピョートル・コズロフが内モンゴルのゴビ砂漠の端にある放棄された西夏の要塞都市カラ・ホトを発見したとき、西夏研究の突破口がついに生まれた。カラ・ホトは明朝初期に突然放棄され、一部は砂に覆われていたため、500年以上にわたってほとんど手付かずのままだった。コズロフは、町の壁の外にある大きなストゥーパの中で、中国語と西夏語を中心とする約2000冊の刊本や写本、多くの西夏仏教美術品を発見し、保存と研究のためにサンクトペテルブルクのロシア地理学協会(ロシア語版)に送り返した。その後、資料は科学アカデミーのアジア博物館(Asiatic Museum)、後のロシア科学アカデミー東洋研究所サンクトペテルブルク支部(現在の東洋写本研究所(英語版))に移された。コズロフによるこの前例のない西夏語資料の発見が、東洋学分野における独立した学問分野としての西夏学の発展につながった。
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