アジア博物館
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「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の記事における「アジア博物館」の解説
ロシア科学アカデミーの東洋学研究所の公式ホームページは、研究所の歴史が始まった時点を、研究所の前身であるアジア博物館(Asiatic Museum)が1818年11月に設立されたときに置いている。1818年11月、ロシア帝国科学アカデミーは、アレッポやトリポリに駐在したフランス領事ジャンバティスト・ルソー(フランス語版)からイスラーム教関連写本700点を購入することを決定した。フランス・フランで51,000フランを支払い、1819年と1825年の2回に分けて写本を輸送する購入計画であった。当時の帝国科学アカデミーの総裁セルゲイ・ウヴァーロフは、東洋の硬貨や手写本などを陳列する特別な場所が必要であるとする意見を添えて、1818年11月15日にアカデミー評議会に諮り、その結果、帝国科学アカデミーの新部門としてアジア博物館が組織された。ウヴァーロフの意見が書かれた書簡によると、彼はアジア博物館が「資料に興味がある者なら誰にでも開かれている」博物館となることを構想していた。開館当初のアジア博物館は「クンストカメラ」の建物の一区画に入居していた。 アジア博物館の初代館長はクリスティアン・マルティン・フレーン(英語版)。彼は開館翌年の2019年11月、『サンクトペテルブルク新聞』(Sankt-Peterburgskie vedomosti)紙上に、アジア博物館が一年間で得た学術的知見を報告した。以後、年次報告は伝統になり、1849年からはアジア博物館自体が発行主体となって逐次刊行物、Mélanges Asiatiques を発刊していく。Mélanges Asiatiques はフランス語で記述された。 アジア博物館は国費の助成を受け、ロシア国内はもとより他国の研究者も収蔵資料を利用できるように整備されていった。東洋の貴重なコレクションを展示する博物館という当初のコンセプトから、次第に、文献資料研究のための図書館、研究センターへと変化した。ロシアにおける東洋学も発展し、アジア博物館がロシアにおける唯一の東洋学研究の中心的拠点であったところ、カザン大学が第二の拠点へと発展し、1855年にはサンクトペテルブルク大学の歴史・古典学部から東洋言語学部が分離し、新たな東洋学の研究拠点になった。1876年には第三回国際東洋学者会議(英語版)がサンクトペテルブルクで開催され、アジア博物館は同会議で中心的な役割を担った。 開館から100年弱経過した1910年代には、アジア博物館は、東洋の歴史、考古学、宗教文化、民族文化、原語、文学を含む幅広い領域を研究するための、国際的に重要な研究拠点へと発展した。資料の収集は1917年まで継続して、精力的に行われていた。1915年にはのちにイスマーイール・シーア派の研究で高名になるイワノフが中央アジアへ旅行し、1100点に上る写本を収集した。当時、カール・ザーレマン(英語版)が館長を務めていたころのアジア博物館はすでに博物館あるいは列品館としては機能しておらず、実質的には図書館あるいは研究センターであった。
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