革命・内戦期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:51 UTC 版)
「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の記事における「革命・内戦期」の解説
1917年から始まるロシア革命と続く内戦期にも、アジア博物館の蔵書と資料の増加は続いていた。帝国科学アカデミーの終身会員セルゲイ・フョードロヴィチ・オルデンブルクは、この資料の増加を「不幸にも」と形容する。革命と戦乱は科学アカデミーに深刻な打撃を与えた。1907年から1914年の間に亡くなった会員が7人であったのに対し、1914年から1921年の間には24人、アジア博物館の資料は、亡くなったり亡命したりしたアカデミー会員の蔵書を引き受ける形で増加した。たとえば、仏教学や日本学、中国学で高名なオットー・ローゼンベルクの蔵書が、このような形でアジア博物館が受け継ぐことになった資料の一例である。しかし、これらの書籍や写本はたいていが略奪にあっており、ページがバラバラに引き裂かれていた。オルデンブルクが1929年に報告したところによると、アジア博物館は人的損失に加えて、資金も燃料も不足し、紙やインクでさえも不足していた。 この時代(1917年から1930年頃まで)は、東洋学、東洋研究、研究組織の新たな形式が模索されていた時代でもあった。たとえば1917年には、アジア博物館にはじめて、日本学専門のスタッフが迎えられた。東京大学で学んだセルゲイ・グリゴリエヴィチ・エリセーエフである。1918年には、日本で仏教を学んだローゼンベルクが2人目の日本学のスタッフとして迎えられた。
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