革命下の少女時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「革命下の少女時代」の解説
1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にテュイルリー宮殿に軟禁された。1790年4月4日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受ける。1791年6月21日、ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃された。マリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人はかねてからマリー・アントワネットより身の安全を守るよう命じられていたとおり、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を逃れた{{efn|その後、エルネスティーヌはナポレオン時代をパリで暮らし、1810年12月7日に妻に先立たれたジャン・シャルル・ブランパンと結婚、1813年12月30日にパリ郊外で死亡した。8月13日、マリー・テレーズは家族とともにタンプル塔に幽閉された。父母と叔母エリザベートは革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離されると、2年近く1人で幽閉生活を送った。国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、公会が差し向けた面会者の質問には全く答えなかった。また、幽閉後、発病した弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズの部屋には下の階に幽閉されていた弟の泣き声がよく聞こえてきた。少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であった。 ロベスピエール処刑後、国民公会政府末期には待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルザス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩する許可を得たり、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」を部屋に呼んで遊ばせるなどした。ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に気の毒になり、伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。また、誰ともほとんど会話のないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズが発声異常に陥ったため矯正を手助けしたものの、ガリガリと話す発声異常[疑問点 – ノート]は生涯無くならなかった。マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。 この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーはタンプル塔の近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。塔に近いボージョレ通りは、マリー・テレーズを一眼見ようとする野次馬であふれた。
※この「革命下の少女時代」の解説は、「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の解説の一部です。
「革命下の少女時代」を含む「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事については、「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の概要を参照ください。
- 革命下の少女時代のページへのリンク