革命作家芸術家協会、世界各国での活動
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「アンリ・バルビュス」の記事における「革命作家芸術家協会、世界各国での活動」の解説
バルビュスはこの間(1926年から29年まで)、『リュマニテ』紙の文芸欄編集長を務めるほか、国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部として1932年3月17日に革命作家芸術家協会が結成されると(ヴァイヤン=クーチュリエ事務局長)、この活動に参加し、翌1933年7月に創刊された機関誌『コミューン(フランス語版)』の編集委員を務めた。革命作家芸術家協会結成時の会員は作家80人、芸術家120人、うち共産党員が36人で、バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルロー、ポール・ニザン、ジョルジュ・ポリツェルのほか、ブルトン、アラゴン、デスノス、バンジャマン・ペレ、ルネ・クルヴェル、マックス・エルンストらシュルレアリストが多く参加した。また、ハリコフ会議参加を機に社会主義リアリズムに転じたアラゴンは編集事務局を務め、バルビュスの没後にジッド、ロマン・ロラン、ヴァイヤン=クーチュリエとともに編集委員、1937年の秋からロマン・ロランと共同編集長を務めた。 バルビュスはフランス国内の反戦・平和運動、共産主義運動だけでなく、人権の侵害、抑圧、ファシズムに反対し、平和と自由を守るための世界各国の運動に参加し、米国の移民労働者ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの冤罪事件(サッコ・ヴァンゼッティ事件)や労働運動の指導者トマス・ムーニー(英語版)の冤罪事件(ムーニー事件)における処刑に反対する運動、ドイツの共産党員ヴィリー・ミュンツェンベルクの国際労働者救援会(ドイツ語版)やインドの独立を支持する委員会(Comité pro-hindou)、イタリア、ドイツのファシズム(ナチズム)の影響を受けた、バルカン諸国における権威主義・全体主義体制を批判する「白い(王党派)恐怖政治の犠牲者擁護委員会」(バルカン諸国での調査の後、1926年に結成)に参加し、ファシスト党・ムッソリーニ政権を批判した社会主義者ジャコモ・マッテオッティの暗殺を糾弾するなど積極的な反ファシズム運動を展開し、国際的な影響力を有することになった。バルビュスのこうした活動については日本の社会主義の雑誌『改造』にも記事が掲載された。
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