救援会
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控訴審が始まってから弁護団は、広く事件の真実を伝え一審判決の不当性を訴える必要性を感じていた。1991年(平成3年)11月29日の弁護団会議で、正当な判決を求める人々を組織して世論の力で外から裁判所を包囲する方針を確認し、安東弁護士を中心に救援会設立に向けて動き出した。翌1992年(平成4年)1月26日に「みどり荘事件を考える会」を開催することを決め、1991年(平成3年)12月27日には、県内で様々な問題に取り組む約40名に、『現代』に載った小林の「夢遊裁判」を同封して参加を呼び掛ける文書を発送した。 1992年(平成4年)1月26日、大分市の大分文化会館で「みどり荘事件を考える会」が開催された。事前の弁護団の心配をよそに、準備していた席はすぐに埋まったため急遽追加の椅子を持ち込み、最終的に約50名が参加する大盛況となった。「考える会」では、一審判決や「自白」、科警研の毛髪鑑定、輿掛の傷などの問題点を、休憩なしで約4時間、弁護士が交替しながら熱く語った。そして、3月9日の次回控訴審第13回公判で、直接輿掛を見て、その語る声を聞いて、輿掛の人柄を確認してほしいと傍聴を呼び掛けた。その控訴審第13回公判には、それまでほとんど傍聴者のいなかった法廷に十数名の傍聴者が集まり、輿掛の被告人質問を見守った。こうした人たちを中心に救援会の結成に向けた準備会を重ね、同年5月17日には市内中心街で結成集会への参加を呼び掛けるビラ1,000枚を配った。呼びかけ人には57名が名を連ねた。 同年5月24日、大分市の大分県労働福祉会館で、真相報告会と救援会結成の集会が行われ、180名余りが参加した。「考える会」と同じく各弁護士が事件と裁判の概要と問題点を語り、鈴木弁護士は「いけにえの論理にマスコミが加担」と題して当時のマスコミの報道姿勢を批判した。参加者の一人、ホテル時代の輿掛の同僚は、マスコミの報道を信じて輿掛を犯人にしてしまったと自らを責め、年月がたって世間からいろいろと言われることも少なくなった中であえて姿を見せた輿掛の家族の気持ちを慮る言葉を涙ながらに語って、参加者の感動を呼んだ。救援会は「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」(略称みどり荘救援会)と命名された。 みどり荘救援会は、安東弁護士を事務局長として、主に次のような活動を行っていった。 会報の発行 みどり荘救援会結成を報告した第1号から控訴審判決が確定した約5か月後の第20号まで、『無罪』と題する会報を発行した。会報は結成総会や公判傍聴に参加できなかった会員にその内容を伝え、新たな会員の獲得や次回公判の傍聴を勧誘する役割を果たした。 真相報告会の開催 みどり荘救援会は、会員のつてを頼りに真相報告会を開催した。結成3か月後の同年8月には佐伯市で100名、日田市で180名を集めるなど大分県内各地で報告会を繰り返し、1994年(平成6年)6月28日には初めて福岡市で開催するなど、最終的に約50回を数える報告会を実施して支援の輪を広げていった。 裁判の傍聴 前述の通り、弁護団はみどり荘救援会結成前の第13回公判の傍聴を呼び掛け、十数名が傍聴した。傍聴活動の目的は、支援者が裁判を見て輿掛が無実かどうか自分自身で判断することと、大勢の支援者で傍聴席を埋めて輿掛を励ますことであった。『夢遊裁判』を著したノンフィクション作家の小林は著書の中で、それまで閑散としていた傍聴席に十数名が入っただけで、法廷の雰囲気が一変したと記している。みどり荘救援会結成後の第14回公判からは、救援会がマイクロバスを準備しての傍聴活動が始まったが、回を追うごとに傍聴希望者が増え、すぐにマイクロバスから大型バスに変わった。行きのバスの車内では必ず同行する安東弁護士からこれまでの裁判の推移と当日の公判での弁護側の意図が説明され、帰りの車内では弁護士から当日の公判の解説を聞き、参加者にはビールが配られて一人ひとりが感想を述べ合った。 みどり荘救援会は、結成後1週間で190名の会員が集まり、同年末には400名を超えた。そして、控訴審判決直前に開かれた1995年(平成7年)5月27日の第4回総会時点で、会員数は621名を数えている。
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