反ファシズム運動
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「ジャン=リシャール・ブロック」の記事における「反ファシズム運動」の解説
共産党を離党した後のブロックの政治的立場はトロツキーが用いた意味における「同伴者」、すなわち、十月革命を支持する作家ではなく、共産主義よりむしろ社会主義に近い左派の作家、あるいはロマン・ロラン的な平和主義者であり、ジャン・リュシェール(フランス語版)が1931年1月18日付『ノートル・タン(フランス語版)(現代)』(リュシェール自身により1927年に創刊、1940年に終刊)に掲載した平和主義宣言に署名し、仏独の和解、融和、協力のための仏独委員会(フランス語版)の会議に参加、また、1931年に政党および哲学・宗教団体から独立した平和運動を目指す団体としてヴィクトル・メリック(フランス語版)によって結成された平和闘士国際連盟(フランス語版)(LICP)の名誉委員会の委員を務めた。 一方、1932年には共産主義・共産党との関わりを否定したうえで、「プロレタリア国家」としてのソ連に対する同調を示し、国際革命作家同盟のベラ・イレシュ(フランス語版)に「帝国主義戦争の脅威にどのように対応するべきか」と尋ねられたときに、「私は共産党員ではない。私はいかなる政党にも属さない。私自身の良心以外のいかなる指示・命令にも従わない。私は1917年から一貫した態度を取っている。この態度は、理論においても実践においても、必ずしもロシア革命への敬意や愛着に関わるものではない。私は常に、そして情熱的にプロレタリア国家を擁護してきた」と語っている。 ヒトラー内閣の成立に連動してアクシオン・フランセーズを中心とする右派・極右団体が民衆を扇動して起こした1934年2月6日の危機を受けて、1935年3月に左派知識人が結成した反ファシズム知識人監視委員会(会長:民族学者ポール・リヴェ(フランス語版)、副会長:哲学者アラン、物理学者ポール・ランジュヴァン)に参加し、1935年に同委員会が「イタリア・ファシズムの犯罪に抗議する」文書を発表し、反ファシズム運動により拘禁・強制移住・強制収容されたイタリア人を支援する国際委員会を結成した際には、ブロックとロマン・ロランが委員長を務めた。同委員会はまた、1935年9月15日付『ユーロープ』誌でファシスト政権下の国家防衛特別裁判所(イタリア語版)によって禁錮刑に処されたアントニオ・グラムシ、ウンベルト・テッラチーニ(イタリア語版)、アレッサンドロ・ペルティーニらの釈放を求め、同号でブロックはエチオピア戦争におけるイタリアに対する宥和政策を批判した。さらに、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された革命作家芸術家協会(AEAR)の機関誌『コミューン(Commune)』に、ブロック、ポール・ニザン、アラゴン、バルビュス、トリスタン・ツァラ、ポール・ヴァイヤン=クーチュリエらによる「エチオピア戦争に反対する作家・芸術家」の声明が掲載された。 ソ連では1932年に共産党中央委員会の決議でこれまで存在した文学団体がすべて解体され、1934年8月にモスクワで第一回ソビエト連邦作家大会が開催され、ソビエト連邦作家同盟が結成された。ブロックはこの大会にアンドレ・マルロー、アラゴン、ニザンらとともに参加し、演説を行った。演説では、ソ連と資本主義諸国の教育制度・文化政策を比較し、後者は不平等に基づくものであると批判する一方で、芸術は「異議申し立て、反体制(opposition)」から生まれ、画一化や体制順応主義・大衆迎合主義への抵抗でもあることを強調し、ソ連共産党のカール・ラデックに個人主義だと批判された。これに対してブロックは、フランスには革命の歴史があり、自由と個人を蔑ろにするという過ちを犯したこともあることに言及し、フランスにおける共産主義革命は西欧革命史との関連においてのみ実現されると反論した。ソ連には19か月滞在し、『ユーロープ』誌に多くの記事を発表すると同時に、ロマン・ロランと連絡を取り、トロツキー(1929年国外追放)の左翼反対派を支持して投獄され、出獄したものの1933年に再び逮捕されてウラルのオレンブルクに流刑にされたヴィクトル・セルジュ(フランス語版)について当局に問い合わせ、彼の釈放を求める運動に参加した(この結果、セルジュは1936年に国外追放され、フランスに亡命した)。 帰国後はソ連に関する講演・執筆活動に奔走した。また、ブロックのソ連滞在中に同国が1933年のヒトラー内閣の成立を受けて、これまでの対外政策を大きく転換し、1934年に国際連盟に加盟、1935年のコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線の結成を提案したことも、フランスにおける人民戦線の結成と併せて、後のブロックの思想と活動を方向づけることになった。1935年6月にはファシズムから文化を守ることを目的とした第一回文化擁護国際作家会議(フランス語版)がバルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらの提案によりパリで開催され、ソ連のイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツのハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアのローベルト・ムージル、英国のオルダス・ハクスリーら約38か国から320人の文学者が参加した。「文化遺産」、「ヒューマニズム」、「国民と文化」、「個人」、「思想の尊さ」、「社会における作家の役割」、「文学創造」、「文化擁護のための作家の行動」のテーマで行われたこの大規模な反ファシズム作家会議で、ブロックはハインリヒ・マンとともに「文学創造」の分科会の司会を務め、「文学創造と人間社会」と題する講演を行った。この会議の概要と主な講演についてはバルビュスの『世界』誌や『コミューン』誌で報告され、邦訳も『文化の擁護 - 1935年パリ国際作家大会』として刊行された。 1936年、ロマン・ロランの『ユーロープ』誌創刊の趣旨である「精神の独立」、超党派的な「自由な思想、真に国際的な思想の雑誌」であった同誌が、反ファシズム運動を背景に共産党に「乗っ取られた」ことを批判して、ジャン・ゲーノが編集長を辞任した。彼は共産党の政策に批判的であり、1936年8月に始まったモスクワ裁判について最初に記事を書いたのも彼であった。ブロックは『ユーロープ』友の会と新編集委員会の結成に尽力し、ジャン・カスーが新編集長に就任した。 1936年6月に講演を行うためにスペインを訪れたブロックは、翌7月にスペイン人民戦線政府に対してフランコ将軍がクーデターを起こし内戦が勃発すると、人民連合全国委員会(Comité du Rassemblement populaire français)よって再びスペインに派遣された。ブロックはアサーニャが率いるスペイン人民戦線政府を支持し、内戦への不干渉政策を採ったブルム首相を批判する記事を多く発表し、これらを編集して同1936年に『スペイン、スペイン !』を共産党の出版局から刊行した。
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