文化擁護国際作家会議
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「ルネ・クルヴェル」の記事における「文化擁護国際作家会議」の解説
1935年6月21日から25日までパリで第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)が開催された。ファシズムから文化を守ることを目的としたこの会議はアラゴンが事務局を務め、フランスのアンドレ・マルロー、アンドレ・ジッド、アンリ・バルビュス、ロマン・ロラン、ジャン・ゲーノ、ポール・ニザンら、ソ連のイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、マクシム・ゴーリキーら、ドイツのハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、英国のオルダス・ハクスリー、E・M・フォースター、ジョージ・バーナード・ショーらをはじめとし、世界38か国から230人の作家が参加した。シュルレアリストと共産主義者の対立というこれまでの経緯から、この会議へのシュルレアリストの参加については批判があったが、最終的には参加が認められた。ところが、ソ連代表のエレンブルグがシュルレアリストを「腐りかけて食べ頃になったジビエ」と表現し、女衒やジゴロ扱いしたことに腹を立てたブルトンがエレンブルグを殴り、シュルレアリスト全員の参加が取り消されることになった。これは、シュルレアリストと共産主義者の連携を常に模索していたクルヴェルには耐え難いことであり、主催者側にこのような決定を取り消すよう必死に訴えたが、エレンブルグは一歩も譲らなかった。そのうえ、主催者会議が行われた6月17日(開会日の4日前)、クルヴェルは、検査の結果、結核が悪化したのを知った。一層絶望を深めた彼は、夜、自殺を図り、34歳の若さで死去した。この死に衝撃を受けた主催者らは、エリュアールがブルトンの代理として会議に参加し、最終日の最後にブルトンの演説原稿を読むことのみ許可した。 6月22日に追悼式が行われ、クルヴェルが『コミューン』誌に発表した講演原稿「個人と社会」が読み上げられた。 モンルージュ墓地(フランス語版)に眠る。 クルヴェルの死に深く心を痛めたルネ・シャールは数年後に、以来、クルヴェルの作品を読むことができなくなったとし、「彼はそのあまりにも美しい性格を最も多く、しかも真っ先に他人に与えた男だ。彼は共有するのでなく、自ら与えるばかりであった」と述懐している。
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