モニエの支援 - 作家の肖像写真
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「ジゼル・フロイント」の記事における「モニエの支援 - 作家の肖像写真」の解説
1935年に6区オデオン通り(フランス語版)で「本の友の家」書店を経営していたアドリエンヌ・モニエに出会い、モニエの書店の斜め向かいでシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を経営していたアメリカ人のシルヴィア・ビーチとも親しくなった。図書館、画廊を兼ね、新しい文学を紹介する講演会や朗読会が行われていたモニエの書店にはフランスだけでなく、ビーチの書店を拠点とするアメリカ、イギリス、アイルランドの作家が多数訪れ、戦間期の文学運動の拠点の一つであった。 もともと文学に関心が深かったフロイントはすでに彼らの作品を読んでおり、作家と話をしたい、もっと作家について知りたいという個人的な関心があった。撮影は作家が最もくつろげる場所として、常に作家の自宅で行った。自宅を訪れ、文学について議論を交わし、相手が興に乗って議論に熱中したときに見えてくる素顔を写し取った。作家は、写真を撮りたいというよりむしろ相手のことを知りたいというフロイントの真摯な気持ちに打たれて心を開き、素顔を見せたのである。実際、彼女は「文学を愛していたし、関心のある作家や、作品を理解している作家だけを被写体にした」と語っており、だからこそ、作家の「忘我」の瞬間とその瞬間に見せる内面、作家自身すら気づいていない特徴を捉えることができたのである。フロイントは特にカラーの肖像写真の先駆者として知られる。早くも1938年に、当時開発されたばかりのカラー写真フィルム「アグファカラー」や「コダクローム」を使って写真を撮り始めた。1940年にパリを去るまでに撮影した写真は1,700枚。その大半が肖像写真で、うち80枚が作家の肖像写真であるが、カラー写真フィルムは当時まだ高価であり、フランスの雑誌や新聞ではカラー印刷ができなかったために、スライドを制作し、1939年にモニエの書店でスライド上映会を行った。後にモニエが「人々の表情が織り成す世界への旅」と呼ぶことになるこの上映会には、被写体となった作家も多数参加した。 パリではマルローをはじめとする第一回文化擁護国際作家会議に参加した作家のほか、ジョージ・バーナード・ショー、T・S・エリオット、ウラジミール・ナボコフ、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、マルグリット・ユルスナール、ジャン・コクトー、エルザ・トリオレ、フランソワ・モーリアック、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、サミュエル・ベケット、ポール・ヴァレリー、シュテファン・ツヴァイク、ボリス・パステルナーク、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラらの写真を撮った(作品参照)。また、モニエの紹介で1939年に2度渡英し、ヴァージニア・ウルフとジェイムズ・ジョイスの写真を撮った。いずれもカラー写真である。特にヴァージニア・ウルフの写真はフロイントの代表作であり、1984年にロバート・メイプルソープが撮影したフロイントの肖像写真にもウルフの写真が写っている。一方、ジョイスの肖像写真は『フィネガンズ・ウェイク』が発表された1939年の『タイム』誌の表紙を飾った。この他、フロイントの肖像写真は、英国の『ウィークリー・イラストレーティッド(英語版)』誌、『ピクチャー・ポスト(英語版)』誌、フランスの『パリ・マッチ』誌、『ヴュ』誌、ドイツの『ドゥー』誌などに掲載された。
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