シルヴィア・ビーチとは? わかりやすく解説

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シルヴィア・ビーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/06 21:43 UTC 版)

シルヴィア・ビーチ
Sylvia Beach
シルヴィア・ビーチ(シェイクスピア・アンド・カンパニー書店にて、1920年)
生誕 シルヴィア・ウッドブリッジ・ビーチ(Sylvia Woodbridge Beach)
(1887-03-14) 1887年3月14日
アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア
死没 (1962-10-05) 1962年10月5日(75歳没)
フランスパリ
墓地 プリンストン墓地(ニュージャージー州
国籍 アメリカ合衆国
職業 書店出版社経営者
活動期間 1920 - 30年代
著名な実績 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の設立・経営
活動拠点 パリ

シルヴィア・ビーチSylvia Beach1887年3月14日 - 1962年10月5日)は、アメリカ合衆国に生まれ、フランスで活躍した書店出版社経営者。1919年パリ英米文学を紹介するシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を設立。1920年代にヘミングウェイフィッツジェラルドら「失われた世代」の作家をはじめとする英米の作家とフランスの作家が交流する場となり、とりわけ、1921年にアメリカで発禁処分を受けたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を刊行したことで知られる。

生涯

背景

シルヴィア・ビーチは1887年3月14日、メリーランド州ボルチモアでシルヴィア・ウッドブリッジ・ビーチとして生まれた[1][2]長老派教会牧師であった父の赴任に伴って米国各地を転々とした後、1901年、1814年にパリで創設されたプロテスタントの教会「パリ・アメリカ教会フランス語版[3]の牧師として赴任した父に同行して渡仏し、同地に1905年まで滞在した[4]。ビーチ一家は帰国後、ニュージャージー州プリンストンに居を定めた。ビーチは1916年にニューヨークに出たときに立ち寄った出版社で店主の話を聞いて、書店を開きたいという夢を抱くようになった[5]

渡仏

1917年にフランス文学を勉強するために再び渡仏し[4]第一次世界大戦中はフランスで志願して救護・看護活動にあたった後、1918年から19年までセルビアアメリカ赤十字社に勤務した[1][2]。この間、あるとき、フランス国立図書館で探していた雑誌がオデオン通りフランス語版7番地の「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」書店にあることを知った。1915年にアドリエンヌ・モニエが創設した書店で、ポール・ヴァレリーヴァレリー・ラルボーレオン=ポール・ファルグジュール・ロマンポール・フォールフランス語版アンドレ・ジッドルイ・アラゴンら前衛作家が集まる場所でもあった[1]。ビーチはそうしたことは何も知らなかったが、早速「本の友の家」を訪れ、モニエに会う機会を得た。モニエからフランスの作家の話を聞いているうちに、再び書店を開きたいという気持ちが湧き起こり、今回はフランスでアメリカの作家を紹介したいという、より具体的な展望を持つようになった[5]

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店

こうして、モニエから助言を得ながら、1919年にパリ6区オデオン地区(広義のサン=ジェルマン=デ=プレ)のデュピュイトラン通りフランス語版にシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を開いた。2年後の1921年にはモニエの書店があるオデオン通りの12番地に移転した。オデオン通りは狭く短い通りで、ビーチの書店はモニエの書店の斜め向かいにあったため、客層もほとんど同じであった。上記のフランス人作家のほか、ロジャー・フライオルダス・ハクスリーイーディス・シットウェル英語版ウォルター・デ・ラ・メア英国の作家・評論家が訪れていた。書店には書籍だけでなく、アメリカの雑誌も置かれ、壁には絵画版画写真が展示されるなどサロンや画廊の役割も果たしていた[5]

1920年代にはガートルード・スタインが「失われた世代」と名付けたアメリカの亡命作家がシャーウッド・アンダーソンを介して集まった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、T・S・エリオットエズラ・パウンドジューナ・バーンズヘンリー・ミラーらである[1][4]。フランスの作家・芸術家の輪も広がり、やがてジャン・ポーランマン・レイジャック・ラカンも常連となる[1]。ヘミングウェイは、この頃のパリでの生活を描いた『移動祝日』の「シェイクスピア書店」の項でビーチを「親切で陽気で、何にでも関心を持ち、冗談や噂話が好きで、誰よりも私に親切だった」と語り[6][7]、フランス人作家のアンドレ・シャンソンは、「英国、米国、アイルランド、フランスの4人の偉大な大使以上に4つの国の架け橋として活躍した」と評している[6]

『ユリシーズ』刊行

シルヴィア・ビーチおよびシェイクスピア・アンド・カンパニー書店の最大の功績としてしばしば言及されるのは、1921年に「猥褻」であるとして発禁処分を受けたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を1922年にパリで刊行したことである[8]。ビーチがジョイスに出会ったのは1920年7月のことであった[4][8]。『ユリシーズ』が発禁となったとき、ビーチとモニエはパリで刊行のための支援を求めた。これに応じたのが、フランソワ・ビュリエが創設し、当時隆盛を極めていたダンスホールバル・ビュリエフランス語版」と「クロズリー・デ・リラ」であった[8]。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店からの刊行が決まったとき、ジョイスと親しくしていたフランス人作家で後に『ユリシーズ』のフランス語訳・監訳をすることになるヴァレリー・ラルボーは、彼が寄稿していた『新フランス評論』誌の編集長ジャック・リヴィエールに「英語圏の新しい文学において偉大な作家は一人しかいない。ジェイムズ・ジョイスである。(この冬に)『ユリシーズ』が刊行されたら、ジョイスは世界で最も有名な、顰蹙を買うほどに有名な作家になるだろう。『新フランス評論』誌はせっかくの機会を失ったのである」と書いている[8]。『ユリシーズ』は1922年2月2日に1,000部限定でシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から刊行された[4]。また、ラルボー監訳の仏語版『ユリシーズ』は、1929年、モニエの「本の友の家」から刊行された[9]

廃業・晩年

「1922年、この建物でシルヴィア・ビーチがジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を出版した」と書かれたオデオン通り12番地の銘板

やがて1930年代に世界恐慌が起こると、アメリカの亡命作家らは帰国し、さらに1941年にナチス・ドイツがフランスを占領すると、ビーチはシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を閉店せざるを得なくなった。1941年12月に、ドイツ兵が来店し、『フィネガンズ・ウェイク』を買おうとしたが、ビーチは手元に1冊しかないという理由で販売を拒否した。ドイツ兵に追って在庫押収すると言われたため、モニエと彼女の助手の助けを借りて在庫をすべて上階のアパートに移動した[6][10]。1943年、ビーチは他のアメリカ人亡命者とともにヴィッテル収容所フランス語版ヴォージュ県)に収容され、6か月後に釈放された[10]

1959年、回想録『シェイクスピア・アンド・カンパニー書店』を発表した。

1962年、シルヴィア・ビーチはパリにて75歳で死去し、故郷プリンストンの墓地に埋葬された[11]。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店が再開されることはなかったが、1951年に別の英語書籍の専門店「ル・ミストラル」を創設したジョージ・ホイットマンが、かねてからビーチに勧められていた通り、彼女の没後1964年にシェイクスピア生誕400年を記念して「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」に改称した[12]

脚注

  1. ^ a b c d e SYLVIA BEACH” (フランス語). Encyclopædia Universalis. 2020年2月29日閲覧。
  2. ^ a b The Editors of Encyclopaedia Britannica. “Sylvia Beach | American bookstore owner” (英語). Encyclopedia Britannica. 2020年2月29日閲覧。
  3. ^ EGLISE AMERICAINE DE PARIS” (フランス語). Les temples protestants de France. 2020年3月1日閲覧。
  4. ^ a b c d e BEACH, Sylvia (1887-1962)” (フランス語). Ambassade et consulats des Etats-Unis d’Amérique en France. 2020年2月29日閲覧。
  5. ^ a b c 平野信行「「本の友の家」と「シェイクスピア・アンド・カンパニー」」『言語文化』第30号、一橋大学語学研究室、1993年12月25日、 75-81頁。
  6. ^ a b c History - Sylvia Beach's Shakespeare and Company, 1919-1941” (英語). SHAKESPEARE AND COMPANY. 2020年2月29日閲覧。
  7. ^ “Ex-Pat Paris as It Sizzled for One Literary Lioness” (英語). The New York Times. (2010年4月18日). ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/2010/04/19/books/19book.html 2020年2月29日閲覧。 
  8. ^ a b c d Josyane Savigneau (2016年7月18日). “L’odyssée d’« Ulysses » de James Joyce” (フランス語). Le Monde.fr. https://www.lemonde.fr/m-moyen-format/article/2016/07/18/l-odyssee-d-ulysses-de-james-joyce_4971296_4497271.html 2020年2月29日閲覧。 
  9. ^ James Joyce” (フランス語). Sotheby's. 2020年3月1日閲覧。
  10. ^ a b Beach, Sylvia; Walsh, Keri (2009). “Inturned” (英語). PMLA 124 (3): 939–946. ISSN 0030-8129. http://www.jstor.org/stable/25614339. 
  11. ^ Sylvia Beach” (英語). nassauchurch.org. Nassau Presbyterian Church. 2020年2月29日閲覧。
  12. ^ L’HISTOIRE DE LA LIBRAIRIE” (フランス語). SHAKESPEARE AND COMPANY. 2020年2月29日閲覧。

参考資料

関連書籍

関連項目

外部リンク


シルヴィア・ビーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 17:45 UTC 版)

アドリエンヌ・モニエ」の記事における「シルヴィア・ビーチ」の解説

フランス文学勉強していたアメリカ人のシルヴィア・ビーチと出会ったのも大戦中のことであったフランスで書店開いてアメリカ文学紹介したいという彼女にモニエパリでの創業について具体的な助言与えたビーチ書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」が同じ6区のデュピュイトラン通りフランス語版)に開店したのは1919年のことであり、2年後1921年にはモニエ書店斜め向かいオデオン通り12番地に移転し1920年代モニエ書店とともにヘミングウェイフィッツジェラルドら「失われた世代」の作家が集まる場所、アメリカ、イギリスアイルランドフランス作家交流の場となったシェイクスピア・アンド・カンパニー書店は、とりわけ1921年アメリカで猥褻」であるとして発禁処分受けたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を刊行したことで知られるが、モニエこのためフランスの文化に対して支援呼びかけ、さらに、1929年には作家ヴァレリー・ラルボーフランス語訳監訳した『ユリシーズ』を「本の友の家書店から刊行した

※この「シルヴィア・ビーチ」の解説は、「アドリエンヌ・モニエ」の解説の一部です。
「シルヴィア・ビーチ」を含む「アドリエンヌ・モニエ」の記事については、「アドリエンヌ・モニエ」の概要を参照ください。

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