渡仏とは? わかりやすく解説

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と‐ふつ【渡仏】

読み方:とふつ

[名](スル)フランスへ行くこと。「ワイン買い付けのために—する」


渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 06:56 UTC 版)

アンドレイ・マキーヌ」の記事における「渡仏」の解説

1987年30歳のときに非合法で渡仏し、政治亡命申請をして認定された。1991年最初帰化申請をしたが却下され1996年、『フランスの遺言書』がフランス権威ある文学賞受賞した翌年にようやくフランス国籍を取得した。 渡仏当初パリ20区ベルヴィル地区フランス語版)で小さアパート借りて不安定な生活を送っていた。パリ政治学院パリ高等師範学校パリ高等商業学校フランス語版)(ISC、現ESCP EUROPE)でロシア文学文体論講座担当しながら、哲学ドイツ哲学哲学史を含む)と文学言語学言語理論を含む)の研究進め1992年ソルボンヌ大学ロシア人小説家ノーベル文学賞受賞作家イヴァン・ブーニンに関する博士論文I・A・ブーニン散文作品 - 郷愁詩学La prose de I. A. Bounine : la poétique de la nostalgie)」を提出して博士号取得した。 渡仏当初から小説書き始め出版社原稿送った次々と断られた。そこで、ロシア人作家書いた小説フランス人翻訳家翻訳したものと見せかけるために、翻訳家名として「フランソワーズ・ブール(Françoise Bour)」と「アルベール・ルモニエ(Albert Lemonnier)」を使用し1990年処女作ソ連のある英雄の娘』(邦題『たった一つの父の宝物 - あるロシア父娘物語』)を「アンドレイ・マキーヌ著、フランソワーズ・ブール訳」として、1992年第二作『失墜した旗手告白』を「アンドレイ・マキーヌ著、アルベール・ルモニエ訳」として発表した

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 20:39 UTC 版)

マリールイズ」の記事における「渡仏」の解説

1891年明治24年)、フランスパリ在住叔母(父の妹)が、当時16歳美禰養女にと申し出た叔母には子がおらず、自身老いたので、身寄り欲しかったのである当時相原家は母、美禰、妹の3人であったが、妹は病弱のため、母のもとを離れるわけにはいかなかった。 母は当初、「貧乏でも母子一緒の方が幸福」として反対したものの、結局は娘の将来考慮し義妹託した。翌1892年明治25年)、美禰駐日イギリス特命全権公使ヒュー・フレイザーの妻メアリーと共にフランスへ渡った美禰パリカトリックの洗礼を受け、聖王ルイ9世と聖母マリアにちなんで、マリールゥヰズ(マリールイズ)の洗礼名授けられた(ルゥヰズLouiseルイLouis女性形)。

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 02:03 UTC 版)

鈴木貫一」の記事における「渡仏」の解説

明治4年1871年9月太政官正院外史明治5年1872年1月17日左院中議生となり、27日左院視察団として西岡逾明高崎正風小室信夫安川繁成横浜出航1872年明治5年3月フランス到着し国務院などの政治制度視察した渡欧中、明治5年3月21日1872年4月28日)付で日本基督公会転入会した視察団では会計担当したが、旅費預金していた南貞助のナショナル・エージェンシーが倒産して金策奔走し胃病患った1873年明治6年5月から弁理公使鮫島尚信の下で在フランス日本公使館勤務するようになり、7月に他の視察団帰国した際にも病気理由帰国せず、1874年明治7年3月8日正式に外務三等書記官となった1877年明治10年)、パリ万国博覧会事務行った1880年明治13年12月4日、尚信が死去すると、5日フランス臨時代理大使就任し、ベルギー・スペイン・ポルトガルも兼轄し、井田譲着任まで務めた1881年明治14年4月1日パリ国際電気博覧会英語版日本帝国政府委員命じられた。

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 16:31 UTC 版)

シルヴィア・ビーチ」の記事における「渡仏」の解説

1917年フランス文学勉強するために再び渡仏し、第一次世界大戦中フランスで志願して救護看護活動あたった後、1918年から19年までセルビアアメリカ赤十字社勤務したこの間、あるとき、フランス国立図書館探していた雑誌オデオン通りフランス語版7番地の「本の友の家La Maison des Amis des Livres)」書店にあることを知った1915年アドリエンヌ・モニエ創設した書店で、ポール・ヴァレリーヴァレリー・ラルボーレオン=ポール・ファルグジュール・ロマンポール・フォールフランス語版)、アンドレ・ジッドルイ・アラゴン前衛作家が集まる場所でもあった。ビーチはそうしたことは何も知らなかったが、早速「本の友の家」を訪れモニエに会う機会得たモニエからフランス作家の話を聞いているうちに、再び書店開きたいという気持ち湧き起こり今回フランスでアメリカ作家紹介したいという、より具体的な展望を持つようになった

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 03:56 UTC 版)

スコラスティック・ムカソンガ」の記事における「渡仏」の解説

資格取得後国際連合児童基金ユニセフ)の仕事得て念願どおり、農村女性たち支援あたったギテガ農村5年ほど仕事をしているときに、文化省からの依頼ブルンジ伝統について調査していたフランス人男性出会って結婚二子もうけた。夫の転勤ジブチ共和国越し1992年に夫の帰国伴って渡仏。夫の故郷ノルマンディー地方エルヴィル=サン=クレールカルヴァドス県)に居を定めた。 ムカソンガは引き続き社会福祉士として働くことを希望したが、ブルンジ得た資格フランスでは通用しなかったため、あらため社会福祉士養成所(IFTS)で勉強して受験し資格取得した1996年から97年までカーン大学フランス語版)の学生支援をし、1998年から現在に至るまで家族政策策定関わる全国家族協会連合フランス語版)を構成するカルヴァドス県家族協会連合社会福祉士務めている。 また、この一環としてカルヴァドス県県庁所在地カーンから10キロほどのところにある海辺の町ウィストレアム(フランス語版)で移民支援をし、このため行政衝突しながらも何度新聞記事掲載するなどして地元支持取り付けた。ウィストレアムの移民は、ここから英仏海峡越えてイギリス渡ろうとする若者たちで、ムカソンガは西欧対す憧れ西欧人の優越性概念批判しながらも、これは植民者によって植え付けられ考えであり、簡単に捨て去ることができるものではない、しかも移民たちには故郷残してきた家族との絆がある、どれほど辛い生活を強いられても希望捨てることは「許されないのだ」と、1973年ブルンジ着いたとき、故郷の家族の運命背負っていた自分自身の姿に重ねている。

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:45 UTC 版)

ジョルジュ・ポリツェル」の記事における「渡仏」の解説

同年18歳のときに、ウィーンオーストリア)に数週間滞在した後に渡仏。ウィーンでは、当時フランスではまだほとんど知られていなかったジークムント・フロイトフェレンツィ・シャーンドルらの精神分析セミナー参加し、後の研究のためにドイツ語著書購入した同年ソルボンヌ大学入学プロテスタント学生協会Association des étudiants protestants)の支援を受け、さらにソルボンヌ大学法学教授オーストリア=ハンガリー帝国研究専門とするシャルル・アイゼンマン(フランス語版)の取り計らい公教育省の奨学金受けたまた、1922年度には、ベルギーユダヤ人金融業者ヒルシュ男爵Maurice de Hirsch)が創設したユダヤ植民協会英語版)の奨学金を受けることができた。 ソルボンヌ大学合理主義数理哲学レオン・ブランシュヴィック師事した。ポリツェルはカントディドロヴォルテールデカルト理性主義啓蒙主義合理主義哲学基礎築いた哲学者から多く学び哲学界・大学哲学教育において大きな影響力をもっていたアンリ・ベルクソンについては一貫して思想的のみならず政治的な観点からも批判的であった後述)。学位取得のために必要な心理学試験を受け、精神医学研究において中心的な役割を担うサン=タンヌ病院フランス語版)の講義受講した。この経験によってさらに心理学への関心深めフロイト研究進めた1923年哲学学士号取得翌年高等研究学位(Diplôme d'études supérieures)を取得した同年2月17日に、講義知り合った優秀な学生カミーユ・ノニー(Camille Nony)と結婚し、翌1924年第一子ジャン誕生。ポリツェルは同年12月21日フランス国籍を取得した1927年2月16日には第二子セシル生まれたこの後カミーユ離婚し1931年3月5日に後にマイ・ポリツェル(Maï Politzer)と呼ばれることになるマリー・マチルド・ラカルド(Marie Mathilde Larcade)と再婚し一子ミシェルもうけたマイ助産婦であったが、病に倒れて仕事断念し、後に共産党員としてポリツェルと活動共にすることになる。

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:32 UTC 版)

アンナ・ラングフュス」の記事における「渡仏」の解説

肉親をすべて失ったラングフュスは、しばらくルブリン演劇学んだ後、翌1946年に渡仏を決意した当初リュエイユ=マルメゾンイル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県)のユダヤ人孤児院数学教えた1948年10歳年長のアーロン・ラングフュスと結婚し同年第一子マリア生まれた一家パンタンイル=ド=フランス地域圏セーヌ=サン=ドニ県)に住み、やがてサルセルイル=ド=フランス地域圏ヴァル=ドワーズ県)に越したアーロンは同じユダヤ系ポーランド人で、すでにポーランドにいた頃からの知り合いであった二人ポーランド語のほか、フランス語イディッシュ語ドイツ語、英語を話したが、家庭では主にフランス語であった渡仏後演劇勉強しユダヤ人雑誌『ラルシュ(フランス語版)』(方舟)に評論発表した1953年最初の戯曲忌み嫌われた者』を執筆し1956年にサッシャ・ピトエフ(フランス語版監督によりアリアンス・フランセーズ劇場上演された。なお、ラングフュスはこの作品のほか4作の戯曲(『アモス偽りの経験』、『報酬』、『至福の夜』、『最後の証人』)を執筆したが、いずれも未刊行である。 1959年フランスに帰化1960年最初の小説『塩と硫黄』発表しスイスのシャルル・ヴェイヨン文学賞フランス語部門)を受章した1962年発表した第二『砂の荷物』同年ゴンクール賞受賞し世界15国語翻訳された。ラングフュスは、エルザ・トリオレ1944年)、ベアトリ・ベック(フランス語版)(1952年)、シモーヌ・ド・ボーヴォワール1954年)に次ぐ4人目女性受賞者である。 1965年第三『飛べ、バルバラ』発表1966年心筋梗塞死去享年46歳第四作を執筆であった

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:33 UTC 版)

フランソワ・チェン」の記事における「渡仏」の解説

1948年19歳のときに、教育学専門家であった父が、設立されたばかり国際連合教育科学文化機関ユネスコ)の任務渡仏することになり、動乱逃れるために同行。父が任務終えて帰国した後も、一人パリに残ることにした。とはいえ大学卒業していないうえに、フランス語一言話せなかった彼は、レストラン給仕店舗発送係などの職を転々とした。当時付き合いがあったのは中国人だけであったが、みな裕福な家庭の子であった再び渡仏した父の取り計らいで、しばらくはユネスコ奨学金を受けることができた。母と兄弟も渡仏し、再会果たしたが、まもなく、父がメリーランド大学中国研究所に職を得て家族とともに渡米することになったチェンは再び一人フランスの残る決意をした。

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渡仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:46 UTC 版)

フィリッポ・ブオナローティ」の記事における「渡仏」の解説

1789年からのフランス革命勇気付けられピサではその急進的な主張対す監視厳しかったことから、フランス領となって間もないコルシカ島へと旅立ち革命運動参加。彼はそこで「コルシカ愛国新聞」(Giornale patriottico di Corsica紙上主張していた革命的なメッセージ広めることに勤めたちなみにイタリア語論文公にフランス革命支持したものはこれが初めであったコルシカ島は、ルソー考え理想社会の姿に最も近いとされた地であった。この地で彼はブオナパルテ(ボナパルト)家と親しくなり、親英派パスカル・パオリとは敵対する活動行った。なお、一族からはナポレオン・ボナパルト出ていたことから、この縁が後に彼の危機を救うこととなる。 その後隠密任務イタリアへ潜入し次いでイギリス奪われカリブ海マルティニーク島サン=ピエールへの遠征隊に同行。さらに初期トゥーロン遠征にも加わった1790年7月に「聖職者民事基本法」 を成立させたが、教皇はこれを激しく断罪ブオナローティ暴行受けたうえ放逐されたが、コルシカ総評議会嘆願により放免された。彼は1791年に島を追放されて故郷トスカーナに戻るが、そこで逮捕され牢獄送られた。1786年フリーメイソン一員となったことが原因とみられる1793年パリへ旅立った彼は、そこでジャコバン・クラブメンバーとなる。ロベスピエール信奉者であった彼は、革命への貢献評価され1793年5月27日法令フランス市民権得て帰化同年6月サルデーニャ王国西岸サン・ピエトロ島からフランスへ渡りニースにて国外追放されたイタリア革命家たちを組織化する任に就いた1794年4月ブオナローティ政府の命により、オネーリアのフランス軍占領地帯へ派遣された。ここで彼は、パン品質改良行ったり、小中学校教育委員会創設推進。さらに、疫病予防のため街の清掃行ったまた、住民の抵抗排除して1793年憲法ジャコバン憲法)」を強制することに尽力した

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