渡仏 - アートセラピー
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「ニキ・ド・サンファル」の記事における「渡仏 - アートセラピー」の解説
ニキとハリーは、マッカーシズム(反共産主義・赤狩り)や人種差別がはびこる当時のアメリカ社会を批判し、芸術活動に専念するために、1952年、パリに移住した。ハリーは音楽の勉強を続けた。ニキはモデルの仕事を続けながら、女優を目指して演劇を学ぶ一方で、芸術家になる夢を抱いていた。だが、「秘密と偽善がゲームの規則」であった家庭に育った彼女は、「内気だったから、自分の気持を表現するのはすごく大変だった」し、両親から学んだ価値観、すなわち、結婚して家庭を築いて、女性の役割を担うことは、彼女が抱いた夢と相反するものであった。 1953年、神経衰弱(特に深刻な抑うつ)のためにニースの病院に入院した。統合失調症と診断された。電気ショック療法を受けたために、記憶力に影響するほどであった。治療の一環としてアートセラピー(芸術療法)を受けたとき、表現によって自分を解放することができることを知った。上述の母親宛の手紙には、母親にとっては何もかも隠さなければならないことばかりだったけれど、「私はすべてを見せる」、芸術表現によって、「仮面を被ることなく」、自分をありのままに見せることができるようになったと書いている。また、精神病院で他の患者と一緒に絵を描き始めたことについて、「狂気の暗い世界」、そしてこの世界からの「回復(癒し)」を発見し、「自分の感情、恐怖、暴力、希望、喜び」を絵画に表現することができるようになった、「絵筆や鉛筆、粘土を手にすると、強い不安が消えた」と語っている。アートセラピストは、このような自己表現はニキにとって、1) タブー(特に誰にも語れなかった父親による性的暴行のタブー)を破ること、2) 他人の目に自分の存在を示し、確認すること、3) 恥の意識を捨てること、4) 象徴的な償いを得ることであったと分析する。 最初は素朴派のような絵や素描を描いた。次第に、太陽、月、動物、怪物、女神などを繰り返し、正確に描くようになった。1954年にパリで活躍していたフィラデルフィア出身の画家ヒュー・ヴァイス(フランス語版)に出会った。正規の美術教育を受けていないニキは画家になることにまだためらいがあったが、ヴァイスに励まされて絵を描き続ける決意をし、彼に技法を学んだ。 1955年に一家でマヨルカ島(スペイン)に移住。同年、息子フィリップが生まれた。スペインを旅行中にアントニ・ガウディの作品に出会った。特にバルセロナのグエル公園は、ニキの後の作品に影響を与えると同時に、トスカーナ(イタリア)の彫刻庭園《タロット・ガーデン》制作・造園の最初のきっかけとなった。 1956年から58年にかけて夫ハリーと恩師ヴァイスに励まされながら油絵を描き続け、ザンクト・ガレン(スイス)で初めての個展を開いた。
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