彫刻庭園《タロット・ガーデン》
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「ニキ・ド・サンファル」の記事における「彫刻庭園《タロット・ガーデン》」の解説
詳細は「タロット・ガーデン」を参照 1968年、長年、彫刻制作に使用していたポリエステル樹脂の燃焼による煙や埃の影響で肺疾患を患い、入院した。希少疾患であり、この後、何度か入院を繰り返すことになった。1974年に、スイスのサン=モリッツで保養していたとき、1950年代にニューヨークで出会ったイタリア貴族で美術品蒐集家のマレッラ・アニェッリ(イタリア語版)に再会した。マレッラに、ガウディのグエル公園を見て以来いつか実現したいと思っていた「彫刻と自然の対話となる庭園、夢を見る場所、喜びと想像の庭園」を造営する夢、後に《タロット・ガーデン》として実現することになる夢について語ったところ、彼女の兄弟カルロ・カラッチョロとニコラ・カラッチョロがトスカーナ、ガラヴィッキオの土地を提供することになった。ニキは、マルセイユ版タロットの22の大アルカナの寓意を彼女なりに解釈し、これを彫刻作品に表現するという構想を抱き始めた。だが、行政上の問題のほか、経済的にも技術的にも困難に直面し、また、彼女自身の健康上の問題もあった。彼女は資金調達のために、これまで制作した作品、特に《ナナ》のミニチュアを制作し、販売した。《膨らむナナ(ナナ風船)》も制作し、米国で製造販売された。さらに、造園が始まってからも香水を制作し、大々的に宣伝した。《タロット・ガーデン》や各作品についても完成前から写真や模型を展示する展覧会を行い、収益を造園・作品制作の費用に充てた。 健康上の問題では、肺疾患に加えて、変形性関節症を発症した。一時は手関節が変形して制作を続けることができなくなり、歩行すら困難になった。だが、ニキは、「どんなことがあっても、中止するわけにはいかなかった。芸術は、才能より、むしろ強迫観念に関わるものだから」と語っている。 技術的には、ティンゲリーをはじめとする彫刻家仲間のほか、フランスやイタリアの各分野の専門家、職人、造園家、地元の住民など多くの人々から協力を得た。ニキは《タロット・ガーデン》の巨大な彫刻作品《女帝》を住居兼アトリエにして、ここで8年以上制作に専念したが、その一方で、世界各国から様々な建築・彫刻プロジェクトの依頼があった。
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