女帝
女帝
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『資治通鑑』永昌元年(689年)正月条の萬象神宮の祭祀の記事で「太后服袞冕」とあり、則天武后は男帝と同じ冕冠を使用している。また、平安初期の正倉院の宝物点検記録の『延暦十二年曝凉帳』『弘仁二年官物勘録』に孝謙天皇の礼冠について「禮服御冠二箇(禮冠一箇、有旒。以雜玉餝)」とあるように、奈良時代の女帝の冠も「旒」という冕冠の垂れ飾りがあったらしい。平安後期の『長元礼服御覧記』によれば櫛形が無い小ぶりな冠で、押鬘の上に三つ花の形を作って花枝の形の飾り金具で飾り付けた。正面やや左に鳳を立てるとあるが、注記に右側のものが「落失」したかとあり、この時点であまり保存状態は良くなかったらしい。御物の後桜町天皇の礼冠(霞会館『光格天皇と幻の将軍』展図録 7頁)が現存するが、『長元礼服御覧記』の記事にはあっていない。むしろ能で使われる天冠に似ている。なお、後桜町天皇の礼冠には笄と夾形が添えられており、夾形はみずらを結ぶリボンであることから、このときは御総角に結われたものであろう。
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女帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
7世紀まで天皇の系譜に男女の区別はなかった。『古事記』では天皇の子は生母ごとにグループ化され、男女共に出生順に「娶いて生む御子」と記され、敬称も「〇〇王(みこ)」で統一される男女混合名簿方式である。しかし7世紀末には「〇〇皇子(みこ)」と「〇〇皇女(ひめみこ)」と区別され、系譜も父系制になってゆく。そうした中で6世紀末から8世紀後半にかけて6人8代の女帝が即位した。同時代に男性天皇が7代であったことを考えれば半数が女性であったことになる。6世紀以降に王権の世襲がはじまるが、7世紀ごろの天皇は即位する年齢も高く、血統的条件だけでなく政治の実務経験に裏打ちされた統治能力を必要としていた。こうした中で女帝は血統と皇后としての統治実績を背景として即位したが、その実は嫡子が成熟するまでの「中継ぎ」であったとされる。しかし元明天皇以降は皇后としての実績を持たずに即位していく。この事は同時期に父系近親婚による血統の純化が行われ、現人神思想が高揚されていったことに関係し、8世紀末以降に成立する統治能力より血統を重視する皇位継承方式(不改常典)への過渡期と位置付けることができる。また実務経験の浅い天皇の後見人となった女性もいた。
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