エカテリーナ (テレビドラマ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 07:30 UTC 版)
『エカテリーナ』(Екатерина)は、2014年からロシア国営のロシアテレビ(ロシア1)で放送されているテレビドラマシリーズである。
注釈
- ^ シーズン1の最終話「逆転の暗殺」の戴冠式シーンやシーズン2のポチョムキン宛の手紙の朗読でナレーションを担当。
- ^ ドイツ語とトルコ語、フランス語はプロイセンやオスマン帝国、フランス関連の出演者の台詞で使用。なお、オスマン帝国時代のトルコ語はオスマン語である。放送時にはロシア語のボイスオーバーがなされている。
- ^ a b 全域がロシア連邦構成主体のクリミア共和国とセヴァストポリ連邦市としてロシアの実効支配下にある。なお、国際法上はウクライナに帰属するクリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市と見なされており、ロシアによるクリミア併合以降、ロシアとウクライナの間で帰属先を巡る係争が続いている。
- ^ シーズン1は11月24日:2時間12分、11月25日:2時間13分、11月26日:1時間22分、11月27日:1時間12分
- ^ シーズン2は2月27日:1時間30分(第1話:47分、第2話:43分)、2月28日:1時間41分(第3話:50分、第4話:51分)、3月1日:1時間35分(第5話:48分、第6話:47分)、3月2日:1時間27分(第7話:50分、第8話:47分)、3月6日:1時間26分(第9話:49分、第10話:47分)、3月7日:1時間25分(第11話:49分、第12話:46分)
- ^ このキャッチコピーの引用元は1756年8月9日、エカテリーナがロシア駐在のイギリス大使、サー・チャールズ・ハンベリー・ウィリアムズへ送った手紙の中の一節である。
- ^ 月曜~木曜(2月27、28日、3月1、2、6、7日)の21:00から2話ずつ放送された。
- ^ サブタイトルのСамозванцыとは詐称者・偽者・僭称者という意味であり、ピョートル3世の僭称者プガチョフ、ヨーロッパで先帝・エリザヴェータの皇女であると僭称していた女性・タラカーノヴァが登場することによる。そのため、直訳すれば「エカテリーナ〜詐称者たち〜」または「エカテリーナ〜僭称者たち〜」となる。
- ^ 収録当時は2019年9月からの放送を想定しており、オペレーター(撮影監督)のマクシム・シンコレンコが 自身のインスタグラム上で ファンからの問いに”только выйдет в 2019 в Сентябре”(リリースは2019年9月の予定です)と返答している。
- ^ 詳細はロシア語版記事を参照。
- ^ シーズン2ではエカテリーナ役のマリーナ・アレクサンドロワ以外の出演者は総入れ替えないし新規加入となっている。回想シーンはシーズン1からの流用である。
- ^ ソース全文 - И все же, мне кажется, третий сезон "Екатерины" должен стать последним. Я безумно люблю эту героиню, знаю, что она абсолютно моя, зрители меня в первую очередь ассоциируют именно с ней, я за нее благодарна и каналу, но... <...> Я всегда умела вовремя остановиться. Когда я чувствую, что начинаю буксовать, что мне это не дает личностного роста, я ухожу. <...> Что касается "Екатерины", здесь тоже нужно вовремя остановиться, пока людям она еще не надоела... В продолжении "Екатерины" я точно сниматься не буду.
(с) Марина Александрова журналу "7 дней". - ^ ソース全文 - Наша любимая «Екатерина» скоро снова на экранах! Записали интервью в чудесном месте- дворце Великого князя Владимира а Петербурге. Красотка Марина Александрова @mar_alexandrova сообщила страшное-третий сезон будет последним!!! Ну, как так!?#сериалекатерина #ждем #скоронаэкранах #питер #спб #съемки #светскаяхроника #россия1 #пакшинпродакшн #маринаалександрова
- ^ エカテリーナ役のマリーナ・アレクサンドロワはシーズン2放送前に受けたインタビューで、ロシア文化省トップのウラジーミル・メジンスキー文化相(当時)の協力に謝意を表明している。
- ^ サンスーシ宮殿が登場するのはシーズン2の第6話「後継者選び」の一部分など。
- ^ 評論家や一部の視聴者からは批判が寄せられたが、製作者側は「現代的な台詞もかつらの不使用も、視聴者の感情移入を促すために意図的に行ったものである。これはドキュメンタリーではないのだから。古代ローマが舞台の映画・グラディエーターの台詞が英語であることに文句を言う者はいない。」と述べている。
- ^ a b c d エリザヴェータの母である第2代皇帝・エカテリーナ1世(在位:1725年〜1727年)の名前。
- ^ 最もよく知られた説が、ピョートルの包茎が原因であり、結婚後も夫婦関係は無かったが手術によって機能を回復したというものである。一方のエカテリーナは回想録で「夫は"方法"を知らなかった」と述懐しているが、ピョートルが結婚の翌年、エカテリーナに宛てた手紙には「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないで欲しい。私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・(後略)」と書かれている。この内容を見る限り、妻のほうが夫を嫌って遠ざけていたように取れる。
- ^ a b c 劇中では戴冠式はペテルブルクのエリザヴェータ夏宮で行われたことになっているが、実際にはモスクワのクレムリン内にあるウスペンスキー大聖堂で行われた。
- ^ a b c 劇中では白い夜着姿で裸足のエカテリーナが灯火のついた蝋燭を持ちながら薄暗い宮殿内の廊下を歩いていき、謁見の間の扉が開かれるのと同時に、皇帝冠を被り、帝笏と宝珠を両手に持ったエカテリーナが戴冠式で着用した豪華絢爛なドレス姿に身を包んで臣下たちの前に現れるという設定になっている。
- ^ a b c d e シーズン2の舞台となる1768年当時、1729年生まれのエカテリーナは39歳だった。しかも、オルロフとは皇太子妃時代にイズマイロフスキー近衛連隊の連隊長を務めていた頃から肉体関係を持ち続け、1762年生まれで6歳になるアレクセイという息子まで儲けた間柄である。しかし、即位した後、エカテリーナは誰憚ることなくオルロフとセックスができるようになったにも関わらず、2人目の子供を授かることができずにいた。そのため、既に高齢出産の域に突入していたエカテリーナは一刻も早くオルロフと結婚してもう1人子供を産むことを夢想するうちに時間ばかりが流れていく現状に焦りを募らせていたのである。
- ^ a b 世継ぎが生まれないことにしびれを切らしたエリザヴェータがエカテリーナに愛人を持つことを許した。その中の一人だったサルトゥイコフとの間にパーヴェルを授かったと、エカテリーナは回想録で告白している。しかし、肖像画に見るピョートルとパーヴェルの風貌には類似点があり、性格にも共通するものがある上、エカテリーナが回想録で言及していた「ピョートルは不能であり、子供を作ることはできなかった」という主張も、現存するピョートルのエカテリーナ宛の手紙(1745年)によって否定されている。そのため、「パーヴェルの父親がセルゲイ・サルトゥイコフである」とするエカテリーナの主張は、エカテリーナの最大の脅威であったパーヴェルが皇帝の座につく正統性の毀損を狙うとともに、「ピョートルが不能である」と人々に信じさせるためにエカテリーナによって意図的に流された作り話だったと推察する研究者は少なくない。詳細は「ピョートル3世 (ロシア皇帝)#エカチェリーナの「武器」」を参照
- ^ a b c d e 実際にソフィアがパーヴェルの愛妾となったのは1771年のこと。この年、パーヴェルはチフスに罹患している。この際、ソフィアはエカテリーナからパーヴェルに生殖能力があるかどうか試して欲しいと依頼されたため、パーヴェルの愛妾となっている。詳細は「ソフィア・ラズモフスカヤ#皇太子パーヴェルの愛妾に」を参照
- ^ パーヴェルの子を宿したソフィアはその後、エカテリーナから役目は終わったとして堕胎を命じられるが、エカテリーナの本心は、ソフィアがロマノフ家の血を引く男子を産み、将来生まれるであろうパーヴェルの嫡子を未来の皇帝にしようと夢見るエカテリーナの野望に挑戦するのを阻止することにあった。しかしソフィアはオルロフの治療を担当した医師のピンクスから「堕胎しようがしまいが、もう二度と妊娠することはできない」という診断を受ける。苦悩の末にソフィアは自身が両親も兄弟もいない天涯孤独の身の上から解放されることを願い、エカテリーナの意に逆らってでもパーヴェルの子を産むことを決意する。エカテリーナは反発するが、ソフィアに「生まれてくる我が子には普通の人生を歩ませる。どんな処罰でも甘んじて受ける代わりに産ませて欲しい」と泣きつかれたため、パーヴェルと即刻別れることを条件に出産を認めることにする。泣く泣くソフィアと別れることに同意したパーヴェルは父親になった手前、生まれてくる我が子に「大帝」を意味する称号を与えると約束する。ソフィアはエカテリーナから手厚い餞別を与えられて宮廷を去り、パーヴェルの息子・シメオン(セミョーン)を出産。その後、かねてからソフィアに惚れていたピョートル・キリロヴィチ・ラズモフスキー伯爵の求愛を受け入れて再婚する。
- ^ 発案者は皇太子パーヴェル。元々は先帝ピョートル3世の銅像を建立しようとしていたのだが、エカテリーナによってピョートル大帝の銅像にすり替えられる。
- ^ a b c 実際のエカテリーナは前王朝のリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの直系の子孫の一人であり、彼の父親ミハイル・ヤロスラヴィチはロシア正教の聖人であり、「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の人物である。故に、彼女はロマノフ朝の血統ではないものの、逆にロマノフ家より正統なロシアのツァーリの皇統の血を引く人物でもあり、ルーシやロシアの高名な歴史的人物の先祖を多く持つエカテリーナは全くロシアに関わりの無い人物と言う訳では無い。
- ^ サブタイトルの「僭称者」はエカテリーナの事をも指している訳である。
- ^ a b c 劇中ではエカテリーナにはネックレスしか与えられなかったが、ロバート・K・マッシー著の『エカチェリーナ大帝 ある女の肖像(上巻)』によると、実際には10万ルーブルの大金がエカテリーナとフョードロヴィチに与えられている。
- ^ 当時はハンザ同盟の加盟都市であると同時に、神聖ローマ帝国の自由都市でもある。
- ^ a b c ロシア語の台詞はсолдат(兵士、軍人)
- ^ a b c d e 当時の官職名は外務参事院議長。外務大臣に改称されるのは1801年。
- ^ 字幕では「洗礼式」と訳しているが、この日は聖パーヴェル(パウロ)の記念日で、誕生日と同じように祝われる。
- ^ オーストリア女帝マリア・テレジアはかつて、自身のハプスブルク家継承の是非を巡る戦争でプロイセンにシュレジェン(シレジア)地方を奪われており、領土奪還を夢見ていた。
- ^ この同盟の象徴的存在となったのが、オーストリア皇女マリー・アントワネットとフランス王太子・ルイ(後のフランス国王・ルイ16世)との結婚である。
- ^ 史実ではこの時伯爵だが、劇中ではクニャーシ(公爵)と呼ばれている。
- ^ a b c あまりにも稚拙な内容に呆れたエカテリーナは「汚い字」と感想を漏らしていた。
- ^ a b c ポニャトフスキがエカテリーナに送った恋文の全文は以下の通り。愛しい人(エカテリーナ)よ。(午後)7時に訪ねるので待っていて下さい。
- ^ милый друг、つまり「ボーイフレンド」程度の意味であり、エカテリーナがそれほど本気でないことが伺われる。
- ^ a b c 「新鮮なキュウリ」とは、「陰茎が勃起している」という例え。つまり、ポニャトフスキはエカテリーナと一晩中セックスに興じながらも、「まだ満足していない」と遠回しな言い方でエカテリーナに訴えているのである。
- ^ a b 報告書の日付は1756年9月12日と13日となっている。
- ^ женское дело、女性の問題・対処
- ^ ロバート・K・マッシー著『エカチェリーナ大帝 ある女の肖像(上巻)』によると、ポニャトフスキはロシア駐在のイギリス大使、サー・チャールズ・ハンベリー・ウィリアムズの秘書として赴任した際にエカテリーナと出会い、肉体関係を持つようになったが、一時的に帰国させられたことがあった。その後、ポーランド公使として舞い戻ってきたポニャトフスキはエカテリーナと再会して肉体関係を復活させ、アンナの父親になった、としている。
- ^ a b c d e 大佐は連隊長、中佐は副官に相当する。近衛連隊の連隊長は基本的に皇帝が兼ねることになっており、副官が実質的な連隊長を務める。(不思議な恋文 女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡、p22の記述を参照)
- ^ 後に皇帝となったフョードロヴィチはプロイセン式の青い軍服をロシア軍の軍服にするなど、極端なまでの親プロイセン政策を取っていた。一方、徹頭徹尾ロシア人らしく生きようとしたエカテリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服を好んで着用し、劇中でイズマイロフスキー近衛連隊にクーデターの方針を告げた時も、クーデターで軍の先頭に立った時も一貫してこの緑色の軍服を着用していた。
- ^ 1721年のニスタット条約でロシア領となっていた。現在はラトビアの首都。
- ^ 結婚前、フョードロヴィチからの初めての贈り物だった
- ^ かつてはエカテリーナに「愛人を持て」と勧めていたエリザヴェータだが、その命令に従ってエカテリーナが次々と愛人を抱えるようになったこと、そして、帝位への野心を抱いていたエカテリーナに脅威を感じたのだろう。
- ^ a b c 既にピョートルとの夫婦関係が完全に無くなっていたエカテリーナは自身の妊娠を表沙汰にするわけにもいかなかった。ただ、ピョートルは密かにエカテリーナの妊娠を知っていて、離婚を急いでいたのではないかとする説がある。実は不義の子であったとしても、皇太子妃・エカテリーナが産む子供という名分がある以上、皇位継承権が保障されていたためである。
- ^ グレゴリオ暦では1762年1月5日
- ^ ただし、ピョートルが行った改革は帝位を継いだエカテリーナによって全否定されたわけではなく、貴族の国家への奉仕義務と軍務を撤廃し、国外旅行の自由を保証する『貴族の自由に関する宣言(Манифест о вольности дворянства)』やプロイセンとの軍事同盟のようにエカテリーナの時代にも引き継がれたものも少なくない。
- ^ a b 1762年4月に開かれた宴席でピョートルはエカテリーナのことを「Folle」、または「ドゥラーク!」と呼んで侮辱したと伝えられる。日本語訳は「馬鹿!」
- ^ a b ピョートルは1762年2月10日の自身の誕生日を祝う宴席(6月20日の露普攻守同盟締結を祝う宴席、という説もある)でエカテリーナに、后妃の証と言って良い聖エカテリーナ勲章をリーザに与えるよう言い渡した。これは万座の前でエカテリーナに侮辱を与えることを狙ったピョートルなりの仕返しだった。しかしエカテリーナはこの屈辱に耐えてリーザに聖エカテリーナ勲章を与え、貴族たちや民衆の同情を集めた。もちろん、ピョートルの権威がこの一件によって地に落ちたのは言うまでもない。
- ^ a b c クーデターを宣言するエカテリーナの演説の中で「クーデターに必要な将校は100人。敵の意表を突き、ねじ伏せる。(中略)ピョートルは6月29日に結婚する。」という台詞がある。
- ^ a b ピョートル3世は教会領の国有化によってロシア正教会の財政基盤の弱体化を狙い、ピョートル大帝の統治の間でさえも深刻な問題であった聖務会院の政治への影響力を弱めようとした。こうしたピョートル3世の改革姿勢は当然ながら、聖務会院の反発を買うことにつながった。ただし、教会からキリスト以外のイコンを外し、聖職者に髭(知恵と伝統の象徴)を剃ってルーテル教会の牧師の服装をするよう強要したという話は、現代の作家によって創られたフィクションである。エカテリーナは回想録の中でピョートルが国教をルーテル教会にすげ替えようとしていたと述べているが、これも全く信憑性に乏しい。
- ^ a b c d 劇中の日付は全てユリウス暦。今作品の舞台となった18世紀では11日分を加えてグレゴリオ暦の日付になる。(不思議な恋文 女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡、p11の記述を参照)なお、ロシアでグレゴリオ暦が採用されたのはロシア革命直後の1918年になってから。
- ^ グレゴリオ暦では4月22日
- ^ a b ペテルブルクの街の大半が木造建築であることに着目したエカテリーナの側近たちが打った大芝居である。エカテリーナの陣痛が始まったのと同じ頃、エカテリーナに仕える侍従のヴァシーリー・シュクーリンが自宅に放火し、その火は瞬く間に他の家にも広がった。火事好きで知られるピョートルの目をエカテリーナから反らすためである。史実では現場へ行き、自分の目で確かめることを信条とするピョートルは宮殿を離れて現場に向かったという。なお、劇中では何も知らないピョートルはリーザと共に火事を眺めて悦に入っており、その隙にエカテリーナはアレクセイを出産した。その後、この火事にエカテリーナが一枚噛んでいると見てとったピョートルはエカテリーナの部屋に押しかけるのだが、既にエカテリーナはアレクセイを出産した後で、けろりとした様子でピョートルに対峙している。また、アレクセイも宮殿の外に連れ出された後だった、という描写になっている。
- ^ シーズン2に登場するアントン・ウルリヒ公がホルモゴルイの修道院に生涯幽閉されていたように、終身禁固刑と言ってよい。
- ^ クーデターを宣言するエカテリーナの演説の全文は以下の通り。慎重かつ大胆に行動せよ。クーデターの詳細な計画については君たちに任せる。
神の恩寵の下、公正公平にロシアを統治すると約束する。
(「エカテリーナ・アレクセーエヴナ。決起志願者をお募り下さい。」と発言するのは副官)
クーデターに必要な将校は100人。敵の意表を突き、ねじ伏せる。
諸君。
ピョートル・フョードロヴィチは6月29日に結婚する。そうなれば彼の暴政を止める手段はなくなる。
今こそ立ち上がる時だ。
共に立ち上がる者は前へ! - ^ "Господа офицеры, кто со мной?"、シーズン1を代表する台詞と言って良いだろう。
- ^ 先陣を切ったのはオルロフ兄弟。
- ^ グレゴリオ暦では7月9日
- ^ 近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊や反ピョートル派の貴族はことごとくエカテリーナ側に付き、ピョートル側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されていた。
- ^ ロシア帝国時代には皇帝の勅令を指す言葉として用いられ、ソビエト時代には最高会議幹部会令及び大統領令を指す言葉として用いられた。現在はロシア連邦大統領が発する大統領令を指す言葉として用いられている。
- ^ a b シーズン2では「ロプシャで」と、史実に沿って語られている。
- ^ a b この乳母が命令に反して幼いイヴァンに話しかけていたのである。
- ^ a b エカテリーナは自分よりも正当な皇位継承権を持つイヴァンを再び皇帝として担ぎ上げようとする勢力が未だに残っていることから、クーデターによって手中に収めた自らの地位を守るため、イヴァンの死刑執行を信念に基づき命じたわけである。
- ^ 結局、戴冠式は行われないまま暗殺されたため、「戴冠していないのだから正式な皇帝ではなく、歴代皇帝の肖像画が並ぶギャラリーにも彼の肖像画は無い」とエカテリーナは主張した。さらにシーズン2ではアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されていたピョートルの棺を掘り起こし、棺の上に皇帝の冠を置く再埋葬の式典が計画される。
- ^ a b エカテリーナが君臨していた34年間、ピョートルはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されていた。ピョートルが歴代皇帝の墓所があるペトロパヴロフスキー大聖堂に改葬・戴冠されたのは、エカテリーナの死によってパーヴェルが皇帝に即位した1796年のこと。
- ^ 史実では1764年。
- ^ a b サルトゥイコフがかつてエカテリーナを捨てる際、「私は臣下なのです」と言ったことへの意趣返しであろう。
- ^ a b c d エカテリーナ第一の愛人であるセルゲイ・サルトゥイコフ公爵がクーデターで勝利したエカテリーナの下を訪ねて復縁を求めた際、白い夜着姿のエカテリーナはアレクセイの揺り籠を揺らしていたので、少なくとも戴冠式が行われるまでは宮廷にいたという描写となっている。
- ^ グレゴリオ暦では10月3日。
- ^ a b 戴冠式で読み上げられた(ただし、一部のみ)、エカテリーナの皇帝としての称号は以下の通り。
«Божиею поспешествующею милостию Мы, Екатерина Вторая, Императрица и Самодержица Всероссийская, Московская, Киевская, Владимирская, Новгородская, Царица Казанская, Царица Астраханская, Царица Сибирская, Государыня Псковская и Великая Княгиня Смоленская, Княгиня Эстляндская, Лифляндская, Корельская, Тверская, Югорская, Пермская, Вятская, Болгарская и иных, Государыня и Великая Княгиня Новагорода Низовские земли, Черниговская, Рязанская, Ростовская, Ярославская, Белоозерская, Удорская, Обдорская, Кондийская и Всея Северные страны Повелительница и Государыня Иверские земли, Карталинских и Грузинских царей, и Кабардинские земли, Черкасских и Горских Князей, и иных Наследная Государыня и Обладательница»
(邦訳:神の与え給うた恩寵による、朕、エカテリーナ2世、全ロシア、モスクワ、キエフ、ウラジーミル、ノブゴロドの女帝にして専制君主。カザン・ハーン。アストラハン・ハーン。シビル・ハーン。プスコフの君主。スモレンスクの大公。エストランド、リーヴランド、カレリア、トヴェーリ、ユグラ、ペルミ、ヴャートカ、ブルガール、その他の公。ニジニ・ノブゴロド、チェルニーゴフ、リャザニ、ロストフ、ヤロスラヴリ、ベロオーゼロ、ウドルの、オブドーリヤ、コンディスキーの君主にして大公。全北方諸国の統治者。イベリア地方、カルトリとグルジアの諸王、カバルダー地方の君主。チェルケスと山岳諸侯、その他の世襲の君主にして領有者。) - ^ 戴冠式のシーンでは、エカテリーナ役のマリーナ・アレクサンドロワによるナレーションが挿入されている。全文は以下の通り。
- ^ a b エカテリーナは1767年にモスクワで招集された新法典編纂委員会に「訓令(ナカース)」を提案する。しかし、新法典編纂委員会はオスマン帝国との戦争が始まったために無期限休会となり、そのまま再開されないままに終わったため、訓令(ナカース)の採択や発効も沙汰止みとなった。
- ^ a b シリーズ1で諜報局として登場した秘密警察はピョートル3世によって廃止され、エカテリーナの時代に枢密院として復活するが、ここでは字幕を優先する。
- ^ ガブリエル大主教の危惧は150年後に勃発した革命とエカテリーナの末裔たちの銃殺、諸外国の介入を招いた内戦によって現実のものとなる。
- ^ この時、エカテリーナに近づいた乞食のような男は佯狂者と呼ばれる行者である。
- ^ この時のオルロフの行動を調査した文書には2月下旬から3月にかけての日付が見られる。撮影時期(2016年4月~7月)とは異なるが、物語は1768年の冬の終わりから始まっているものと推測される。
- ^ 出席者はオルロフ、パーニン、オルスーフィエフ、グリゴリー・ニコラエヴィチ・テプロフ伯爵
- ^ エカテリーナにとって、ピョートルと過ごした18年の歳月は忌まわしいものでしかなく、二度と思い出したくなかったのだろう。それ故に、パーヴェルをピョートルにつながる過去から遠ざけて育ててきたエカテリーナの今までの苦労はこの一件によって水の泡と化してしまったのである。
- ^ この肖像画のモデルとなったのは、1761年に画家ルーカス・プファンツェルトによって描かれたピョートルの肖像画(エルミタージュ美術館蔵)。パーニンは「見たところ、古い肖像画のようです。ピョートルが25歳か26歳の頃に描かれたもの」だとしている。なお、顔の部分は今作品でピョートルを演じたアレクサンドル・ヤツェンコの顔に置き換えられている。
- ^ 直訳は「グリゴリー・アレクサンドロヴィチ。ずいぶんと楽しそうに見えるけど?(Григорий Александрович. Это выглядит как веселье?)」
- ^ a b 勲章についてエカテリーナたちと議論した際、オルロフは「私は聖ゲオルギオス勲章を最初に授与されるので」という理由で議論に加わるが、実際に彼が授与された勲章の中に聖ゲオルギオス勲章は入っていない。オルロフが実際に授与された勲章は聖使徒アンドレイ・ペルボズバンニー勲章、聖アレクサンドル・ネフスキー勲章、聖ウラジーミル勲章、聖アンナ勲章のみ。
- ^ ポチョムキンによると、黒色は火薬と死の象徴で、金色は炎と命の象徴だという。
- ^ ベツコイによると、水色は潔白と献身、安全性の象徴で、金色は謙虚さと慈悲、公正さの象徴だという。
- ^ エカテリーナの言う「南部」とは、当時、オスマン帝国とその保護国であるクリミア・ハン国の領土であるロシア南部やウクライナ南部、クリミア半島を指していた。
- ^ 当時は世界各地で天候不純によって農業生産が不振となっていたほか、ヨーロッパでは度重なる戦争によって耕地が荒廃し、飢饉が発生していたため、食糧事情が悪化していた。特にプロイセンでは三十年戦争により耕地が荒廃し、飢饉が頻発して食糧事情が悪化した際にジャガイモの栽培がフリードリヒ大王の勅命により強制的に奨励され、成功している。その要因としては、踏み荒らされると収穫が著しく減少するムギとは違って地下に実るため、踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れられたためである。また、鎖国体制を取っていた日本の徳川幕府でも、8代将軍・徳川吉宗(在位:1716年〜1745年)の時代に活躍した儒学者・青木昆陽の尽力によって、サツマイモが全国的に栽培されるようになった。
- ^ パーニンの場合、「(温室野菜は)薬局の匂いがするのでとても食べられない」とまで言い放っていた。
- ^ 国務長官オルスーフィエフは「何とかしなくては。2年も不作が続いた。3年はごめんだ。」と発言している。
- ^ a b フョークラの説明では「カブのパイ風料理」だという。
- ^ フョークラによると、不作の年ということで村ではキクイモが高級品と化しているが、味はまあまあで栄養価も高いという。インディアンキャロットは最悪だったが、無害だという。
- ^ 中国語名・黒竜江
- ^ ロシア帝国の広大さと強大さを誇示したエカテリーナの演説にはいくつかの誇張が見られる。カムチャツカ半島は既にロシア帝国領となってはいるが、エカテリーナがアラスカに触手を伸ばしたのは1784年になってからである(ロシア語版ではさらに遡って1772年)。また、アムール川流域は当時、清国が支配しており、ロシアとの国境はピョートル大帝及びイヴァン5世(厳密には大帝の姉ソフィア・アレクセーエヴナによる摂政政治)時代の1689年に締結されたネルチンスク条約によって、アムール川よりもはるか北方に設定されていた。実際にロシアの東部国境がアムール川にまで到達したのはアレクサンドル2世治下の1858年に締結されたアイグン条約と1860年に締結された北京条約である。ペルシャに至ってはピョートル大帝時代に勢力を伸ばしたきり、ほぼ手付かずの状態にあった。なお、御前会議が開かれていた部屋に掛けられていた帝国の領土が描かれた地図によると、ロシア帝国の領土の東端はアリューシャン列島と千島列島のウルップ島までとなっており、日本とロシアとの間で帰属を巡る交渉が未解決となっている北方四島(国後島・択捉島・色丹島・歯舞群島)やサハリン島はロシア帝国の領土として描かれてはいない。
- ^ ロシア語版:Великие граждане нашего имперского народа стремятся к консолидации и защите со стороны России. Россия ответит на ее запрос в максимально возможной степени.
- ^ この台詞は2014年のクリミア・セヴァストポリの併合が正当なものであることを歴史ドラマを通してロシア国民に改めて認識させようとしたものと思われる。なお、劇中では触れられていないが、エカテリーナは1783年にクリミア・ハン国の併合を断行している。
- ^ ソロのダンスを踊っているのはエカテリーナのダンス教師・ランゲである。
- ^ アレクセイはここで初めてオルロフ姓を名乗ることになる。それまで姓を持っていなかった。
- ^ a b ここでいうロマノフ家とは、ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家のこと。
- ^ ツァールスコエ・セローにある夏の離宮・エカテリーナ宮殿のこと。
- ^ a b c d 「ツァールスコエ・セロー」の表記が登場するのは、シーズン2の第6話「後継者選び」などごく一部。「ツァールスコエ・セロー」として表記される場合は「ツァールスコエ・セロー エカテリーナ2世の避暑地(Зарльское-Серова Летний курорт Екатерины II)」などと表記される。ただし、字幕の日本語訳では「皇帝の避暑地」となっている。続く第7話「専制君主への道」では「サンクトペテルブルク ロシア帝国の首都(Санкт-Петербург Столица Российской империи)」として表記される。
- ^ 当時のロシアでの性的同意年齢は男子が15歳、女子は12歳からとなっていた[44]。詳細は「ロシアでの性的同意年齢」を参照
- ^ a b 劇中では「コンスタンティノープル オスマン帝国の首都(Константинополя Столица Османская империя)」として表記される。当時はイスラム世界では「イスタンブール」の名称が用いられた一方、ヨーロッパ諸国では「コンスタンティノープル」の名称が広く一般的に用いられ、「イスタンブール」を用いる例は稀だった。ヨーロッパ諸国が「イスタンブール」の名称を用いるようになったのはオスマン帝国が滅亡した1922年以降のことである。
- ^ ピョートル大帝が崩御したのは1725年のことである。
- ^ ピョートル大帝の姪で大帝の兄・イヴァン5世(在位:1682年〜1696年)の娘。1730年に第3代皇帝・ピョートル2世が崩御すると、ピョートル大帝の直系で唯一生き残っていたエリザヴェータを忌避した保守派の大貴族と最高枢密院によって擁立される。エリザヴェータが忌避された理由は、保守派の大貴族を中心にピョートル大帝による西欧化政策への反発が依然として根強く残っていたからである。即位後、アンナは最高枢密院を廃止する一方、ピョートル大帝の西欧化政策があまりにも急進的過ぎたものだったことから、西欧化政策をロシアの現状に即したものに修正する一方、エリザヴェータが帝位を簒奪するのではという恐怖からイヴァン5世の直系皇族への皇位継承を企て、イヴァン6世の即位を実現させるが、アンナの死後、エリザヴェータがクーデターを起こして即位したため、その試みは挫折した。詳細は「アンナ (ロシア皇帝)」を参照
- ^ 歴代皇帝の戴冠式はイヴァン雷帝(1547年に実施)以来、モスクワのクレムリンにあるウスペンスキー大聖堂で行われる慣わしだったからである。
- ^ エリザヴェータの遺書はその内縁の夫であるアレクセイ・ラズモフスキー伯爵を「次の皇帝にする」というものだったが、エカテリーナがクーデターを起こして即位した際にラズモフスキーが「遺書は本物だ」と認めながらもエカテリーナに忠誠を誓って帝位継承権を放棄し、エカテリーナの許可を得て焼却してしまっていた。また、ピョートル3世(フョードロヴィチ)は帝位継承者を決める前にエカテリーナのクーデターで玉座を追われた上、暗殺されていた。
- ^ ピョートル大帝が定めた帝位継承法はエカテリーナの死後、帝位を継いだパーヴェルによって全面改正され、新しい帝位継承法として公布された。この帝位継承法ではそれまで曖昧だった帝位継承の順序を初めて明文化し、男系男子が優先的に帝位継承権を行使できるとした上で、女性皇族や女系皇族は「男系男子が絶えた場合」という条件付きでの帝位継承権が認められたが、女性皇族の帝位継承権行使を事実上制限する内容だったため、これ以後、ロシアには女帝は出現しなくなった。その後、ニコライ2世治下の1906年に憲法にあたる国家基本法が制定された際、帝位継承法は国家基本法を構成する法律として位置付けられ、独立した法律ではなくなった。
- ^ ピョートル3世を忌み嫌っているエカテリーナにとって、自らの正統性を揺るがすことにつながるピョートル3世の騎馬像を建立するわけにはいかないが、ピョートル大帝の威光が薄れつつある現状を打破するきっかけとして、パーヴェルが温めていた騎馬像建立計画を利用できると考えたのであろう。
- ^ エカテリーナ(1741年 - 1807年)、エリザヴェータ(1743年 - 1782年)、ピョートル(1745年 - 1798年)、アレクセイ(1746年 - 1787年)の4人
- ^ a b c d e ホルモゴルイを出立するエカテリーナの命令でパーヴェルと一緒に馬車に乗り、血生臭い権力闘争を繰り返しながら築き上げられてきた帝国の内幕を知って衝撃を受けるパーヴェルに誘いをかける。パーヴェルは最初、内気でためらいがちだったが、ソフィアにキスされたのをきっかけに箍が外れて抱き合うというもの。その後、ダリヤ・サルトゥイコヴァの領地から脱出した際にパーヴェルはソフィアと再び馬車に乗り込み、激しいキスの末にドレスを剥ぎ取られたソフィアはパーヴェルに組み敷かれ、こじ開けられた両足がパーヴェルの腰を締め付ける形となり、そのまま契りを交わすという描写になっている。
- ^ a b 現在はラメンスコエ市
- ^ サルトゥイコヴァの館として、ゴールキ・レーニンスキエに保存されているレーニンの邸宅博物館が用いられた。
- ^ 農奴解放が行われたのはエカテリーナの時代から1世紀後の1861年に当時の皇帝・アレクサンドル2世(在位:1856年~1881年)が発した農奴解放令によってである。
- ^ a b c d 劇中では詳しく語られないが、侍医ロジャーソンの証言から、医師ピンクスはオルロフの生殖器に何らかの外科的切除を施し、(不妊と引き換えに)急激に性欲を亢進させる事によって勃起不全を治療したと推測される。なお、ピンクスはペトロパヴロフスク要塞でシェシコフスキーによる尋問を受けた際、治療方法について証言している。それによると、皮弁を切り取り、ミョウバンと一緒に焼灼した後、特別な治療薬を調合してオルロフに投与するという治療法を使ったという。頭痛・目眩を引き起こしていた外傷性脳損傷(慢性硬膜下血腫か)を放置したまま、勃起不全の治療のみ行われたわけだが、完治したと思い込み、意気揚々とエカテリーナとのセックスに挑んだオルロフだが、一向に疲れを見せないエカテリーナに精根を吸い尽くされたことで全身に負担を掛け、脳へのダメージを重ねてしまう。それが更に深刻な症状(失神・鼻血・激しやすくなる)を引き起こし、やがて認知症を発症する事になる。
- ^ a b c その時のエカテリーナとオルロフの嬌声は寝室の隣に控えていたフョークラらメイドたちにも聞こえるほどであった。
- ^ a b c d エカテリーナの即位から1年後(1763年)にミハイル・ヴォロンツォフ伯爵が宰相を辞任すると、その後のエカテリーナの治世33年間で宰相は空席となっていた。
- ^ 捜査報告書によると、農奴数千人が虐殺され、身体的虐待を受けていたほか、行方不明の者も数多くいた。シェシコフスキーによると、27人の農奴がモスクワの警察当局に告発したという。なお、史実ではサルトゥイコヴァは1762年に逮捕された後、6年に及ぶ捜査が行われた。その結果、犠牲者は138人であり、そのうちのほぼ全員がサルトゥイコヴァに仕える者たちだったという。また、サルトゥイコヴァは138人の女性農奴を撲殺または拷問死させた事実も明るみに出た。
- ^ 1754年以降、ロシア帝国では死刑が廃止されていたほか、クーデターでピョートル3世から帝位を簒奪したばかりで権力基盤が不安定だったエカテリーナは貴族階級の支持を保持しておく必要があったのである。
- ^ 実際のところ、サルトゥイコフ家の領地における死人の続出に対する当局への訴えは、初めのうちは全く無視されていた。その理由はサルトゥイコヴァが宮廷の要人たちと有力なコネクションを持ち、告発を握り潰させていたためである。しかし、犠牲者となったある女性の親族がエカテリーナに嘆願書を送ったことでようやく明るみに出た。
- ^ エカテリーナがパーニンに与えた権限は大砲・ショットガン・火薬や備品の調達、港への船材の配送、大量の食料の配送、馬の配送、財務部門、地主や武器製造者からの要請の検討、行政区域及び最重要事項となる国事の掌握、である。
- ^ ポルタヴァの戦いの舞台。現・ウクライナ領。
- ^ ちなみにエカテリーナはシェシコフスキーからもパーニンを宰相に任命するよう進言を受けていた。当時、モスクワでは20程の貴族が反乱を企んでおり、不満を持つパーニンに働きかけるのを未然に防ごうという戦略である。
- ^ a b c d ソフィアはパーヴェルに対して、「パーヴェル様は冷酷な処刑人です」とさえ言っていた。また、ソフィアの寝室から漏れ聞こえてくる嬌声はエカテリーナとオルロフのセックスを彷彿とさせるもので、パーヴェル付きの侍従・ルカはなかなか寝付けず、睡眠薬代わりにワインを飲み干すほどだった。
- ^ 教会財産の国有化はピョートル3世時代から計画され、エカテリーナの時代に実行されていた。
- ^ 帝政時代を通してロシア正教会は国家の管理下にあり、独立を回復したのはロシア革命後にソビエト政府が発した政教分離の布告によってである。
- ^ ピョートル大帝は大北方戦争でスウェーデン帝国と戦った際、ナルヴァの戦い(1700年)で大敗を喫した。この戦いの後、ピョートル大帝は軍備の近代化を急ピッチで進めるのだが、ナルヴァの戦いで大砲を全て失ったことから、穴埋めとして教会の鐘を供出させて大砲を作らせた。その後、1709年のポルタヴァの戦いでロシアはスウェーデン国王・カール12世率いるスウェーデン軍に勝利し、最終的に大北方戦争はロシアの勝利で終結(1721年)。それまで帝政ではなかったロシア(ロシア・ツァーリ国)は大北方戦争終結の直後(1721年10月22日/11月2日)、元老院と聖務会院からピョートル大帝に「インペラトル」(ロシア皇帝)の称号が贈られて正式に帝政へと移行した(ロシア帝国)。詳細は「ロシア皇帝#歴史」を参照
- ^ a b エカテリーナの預言めいたこの言葉はやがて現実のものとなる。エカテリーナの死後、帝位を継いだパーヴェルは34年もの長きに渡って君臨してきた母の政策を全否定した上、葬儀の際には父の再埋葬式と戴冠式を合わせて挙行した。そして、母・エカテリーナに対しては異種返しとばかりにピョートルの妃として葬ったという。また、気まぐれで一貫性のない政策を諫めた多くの重臣を罷免したことから反感を買い、1801年に近衛連隊が起こしたクーデターで暗殺されることになる。
- ^ Rh式血液型不適合妊娠と推察される。
- ^ ピョートル大帝は後継者としていた息子のアレクセイ・ペトロヴィチを廃嫡し、1718年に死に追いやっている。ピョートル大帝は皇帝となった後の1722年、君主が後継者を生前に指名する形式の帝位継承法を定めたものの、最後まで後継者を指名しないままこの世を去ったため、皇后だったエカテリーナが後継者となった。
- ^ a b c エカテリーナとポチョムキンの間には1162通もの往復書簡のやりとりがあり、ポチョムキンはエカテリーナからの手紙を肌身離さず持ち歩いたため散逸すること無く現存している。なお、ポチョムキンからの手紙をエカテリーナは目を通した後に焼却していたといわれていてほとんど現存していない。この往復書簡はモスクワのロシア国立公文書館に所蔵されている。ソビエト崩壊後の1997年、エカテリーナとポチョムキンの秘密結婚を研究していたヴャチェスラフ・ロパーチン博士は往復書簡を『エカテリーナ2世とG・A・ポチョムキンの個人往復書簡集(Екатерина II и Г. А. Потемкин. Личная переписка)』として公表した。
- ^ a b c “Екатерина Вторая и Г. А. Потемкин «Личная переписка 1769-1791»”. ロシア国立公文書館 (2018年6月12日). 2018年6月12日閲覧。
- ^ 1773年12月4日付のポチョムキン宛の手紙から一部が引用されている。
- ^ エカテリーナと文通していたヴォルテールとドゥニ・ディドロが彼を推薦した。
- ^ 「ひととき」と訳したがポチョムキンは "минуты"と表現している。「時間」ではなく「分」の複数形である。
- ^ エカテリーナが「硬」ならオルロフは「軟」で、結婚の許可を得ようと、これまでに寄付など、様々な形で正教会に恩を売っていた。
- ^ 既にソフィアの腹部の膨らみは隠し通せるものではなく、しかもパーヴェルとの関係も公然の事実として認識されていたのである。
- ^ a b c ピョートル大帝とエカテリーナ1世の結婚をさす。
- ^ 劇中では1717年に画家ジャン=マルク・ナティエによって描かれたピョートル大帝の肖像画(オリジナルはミュンヘンのレジデンツ美術館に所蔵)が頻繁に登場する。
- ^ ピョートル大帝の肖像画を登場させることによって、エカテリーナがピョートル大帝を凌ぐ皇帝として歴史に名を残したことを印象付ける狙いがあったものと思われる。
- ^ 宣戦布告文書は以下の通り。神の恩寵による、朕、エカテリーナ大帝。全ロシア、モスクワ、キエフ、ウラジーミル、ノブゴロドの女帝にして専制君主。カザン、アストラハン、シベリア、その他の統治者。
我が国は今まで、オスマン帝国による国境侵犯に対し、度々警告してきた。
しかし、国境侵犯はとどまるところを知らず、熟慮の末に決断せざるを得ない。
我がロシア帝国はここに、オスマン帝国に対して宣戦を布告する。 - ^ ヴェリーキー・クニャージ(Великий князь)のこと。ロシア大公とも訳される。
- ^ ヴェリーキー/ヴェリーカヤ(Вели́кий/Вели́кая)
- ^ 原語版はセミョーン。
- ^ 史実では1773年から1775年まで。シーズン3で詳しく描かれる。
- ^ ピョートルは"事件"後、直ちに埋葬せよとのエカテリーナの命令で慌ただしくアレクサンドル・ネフスキー大修道院に葬られたため、木の十字架があるのみで、墓石も柵も無かった事が、訪れたベツコイにより明らかにされる。皇帝の墓としてあまりに異様な状態は、見た者たちに余計な疑念を抱かせるとベツコイは危惧した。
- ^ 決戦の舞台となったチェスマは現代のトルコ領チェシュメ
- ^ この露土戦争は翌1774年に講和条約が締結され、ロシアの勝利に終わる。
- ^ この時、エカテリーナから手渡された記念品はおそらく時計であろう。ロシアでは時計を贈る事は別れの印である。
- ^ 劇中では1777年、ガッチナ宮殿はパーヴェル夫妻に与えられる。オルロフはその前年、少女暴行事件を起こし、激怒したエカテリーナにより宮殿に召喚されたが、重い認知症になっていた。彼はエカテリーナの命で最も厳しい修道院送りとされ、その後は語られていない。
- ^ a b c самая разврачивания женщина петербурга
- ^ 字幕の「立場は忘れて」は意訳。"будьте со мной на “Ты”" тыは親しい間柄で使う二人称。そのような仲になって欲しいとエカテリーナはポチョムキンに求めている。(その後もポチョムキンは敬称のвыを使い続けている)
- ^ 「」内の台詞は原語版に従った。
- ^ a b 嫡子作りをパーヴェルに託したとはいえ、セックスなしの生活など考えられなかったエカテリーナはまだまだ、妊娠・出産への熱意を諦めていなかったと思われる。つまり、帝位継承とは無縁の存在となる子供を望んでいたといえよう。
- ^ エカテリーナと三姉妹はドイツ語で会話している。
- ^ エカテリーナはポチョムキンにも意見を求め、「あなたが18歳ならどの娘を選ぶ?」と訊くと、彼はつい先日エカテリーナから求愛された際「早すぎます(Это слишком,Я не могу так быстро)」と言いながら、今度は「早いのが何より肝心です(Любую главное быстрое)と言い、エカテリーナの失笑を誘っていた。
- ^ a b カーチャのモデルは実際にオルロフの妻となったエカテリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァだと思われる。なお、劇中では暴行を受けたカーチャは勅令でエカテリーナ付きの侍女となった。
- ^ a b c なお、この指示書をエカテリーナに見せた時、「エカテリーナの栄光」を意味する街・エカテリノスラフの精密な立体模型を眺めながらポチョムキンと抱き合っている姿をパーヴェルに見られてしまったエカテリーナだが、すぐに「私たちは今忙しいのよ!国家の重要事項について話をしているのだから」(日本語訳は「国家の重要事項でポチョムキンと話をしていたのよ」)と怒気を含んだ声で取り繕い、パーヴェルもその説明を信じて深く追及しようとはしなかった。
- ^ a b c エカテリーナの生まれ故郷である。
- ^ a b パーヴェルがこの「指示書」をエカテリーナに示した時、エカテリーナは老眼鏡をかけながら一読して裁可したが、言葉のつづりの間違いを見落としてしまった。それだけに、エカテリーナでさえ見落とした言葉のつづりの間違いを臆することなく指摘したゾフィーにパーヴェルはエカテリーナとは違う一面を見いだしたのであろう。
- ^ エカテリーナは最晩年、パーヴェルを廃嫡してアレクサンドルを次期皇帝にしようと画策していたといわれており、帝位継承に関する様々な噂が流れていたという。その後、エカテリーナが1796年に脳卒中の発作に襲われて意識を失った際、冬宮に駆けつけたパーヴェルは外相のアレクサンドル・ベズボロドコ公爵からアレクサンドルを帝位継承者と定めたとされるエカテリーナの覚書を手渡され、暖炉で覚書を焼却して葬り去ったと伝えられている。なお、パーヴェルが冬宮に到着した翌日(11月6日/11月17日)、エカテリーナは息を引き取った。享年67歳。
- ^ 実際の出国は1780年。
- ^ a b 劇中ではアントン・ウルリヒ公と妻のアンナ・レオポルドヴナがホルモゴルイに埋葬されたことになっているが、実際にはアントン・ウルリヒ公のみがホルモゴルイに埋葬されており、アンナ・レオポルドヴナはアレクサンドル・ネフスキー大修道院の受胎告知教会に埋葬されている。なお、アントン・ウルリヒ公の墓所は長らく不明であったが、2007年にホルモゴルイで行われた発掘調査によって、アントン・ウルリヒ公の墓所の存在が確認された。
- ^ a b Могилы знаменитостей. Анна Леопольдовна Принцесса Брауншвейг-Люнебургская (1718—1746)
- ^ a b c d 歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチン博士の研究によると、エカテリーナとポチョムキンは1774年6月8日(グレゴリオ暦では6月19日)に秘密裏に結婚した後、翌1775年には娘のポチョムキナ(チョムキナ)(1775年 - 1854年)を儲けたと伝えられる。
- ^ ロシア・アカデミーの総裁となったエカテリーナ・ダーシュコヴァ夫人が中心となって編纂されたもの。刊行はエカテリーナ最晩年の1793年。詳細は「エカテリーナ・ダーシュコワ#2つのアカデミーの指導者」を参照
- ^ 劇中では触れられていないが、エカテリーナは現在、世界遺産に登録されているエルミタージュ美術館を1764年に創設した。
- ^ ロシア帝国の領土拡大を参照。
- ^ ロシア語版全文:Екатерина поверила в просветление, подумала и воплотила его в жизнь. Были созданы больницы, эвакуационные центры, детские дома, а также Российская академия и Смольный колледж Гакуина. Словарь был опубликован. Кроме того, он поддерживает художников, музыкантов, писателей, поэтов и ученых. Во времена правления Екатерины в стране было 144 новых города. Население империи удвоилось. Россия продвинулась в Черное и Азовское моря, и власть Империи выросла как беспрецедентная. Таким образом, Екатерина II стала самым мудрым правителем в истории России и стала императором, не приближенным к первому поколению Петра I.
- ^ グレゴリオ暦では8月29日
- ^ 本作品では「公爵」とされている。フュルストを参照。
- ^ Ваше величество(ヴァーシヴィリーチストヴァ)
- ^ государыня(ガスダールニャ/グスダールニャ)
- ^ エカテリーナのセックス漬けの日々は1796年に67歳で亡くなるまで続き、生涯で持った愛人は12人とも300人ともいわれている。そのため、孫のニコライ1世(在位:1825年〜1855年。パーヴェルとマリアの三男で第11代皇帝。生まれたのはエカテリーナが亡くなった1796年)はエカテリーナのことを「玉座の上の娼婦」と酷評する始末であった。詳細は「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)#私生活」および「エカチェリーナ2世の愛人一覧」を参照
- ^ "чичистой радость"(ピュアな喜び)
- ^ a b c 男子なら「ヴェリーキー」、女子なら「ヴェリーカヤ」。なお、劇中では「パーヴェルが『エカテリーナ』と命名したら面白いわ!」と高笑いしていたエカテリーナ自身も「ヴェリーカヤ」と名乗っている。
- ^ グレゴリオ暦に換算した在位期間は1741年12月6日から1762年1月5日まで。
- ^ ロシアの諺。"Без русского языка не сколотишь и сапога"(訳:「ロシア語無しではブーツも作れない」。)ロシアの靴職人は非常に口汚く罵りながら靴を作る事で知られていた。そこから「靴はロシア語の下品な言葉抜きには作れないものだ」というジョークが生まれる。ゾフィーはこの諺が恐るべき罵詈雑言を暗に示すとは知らず、単に『ロシア語を知らなければ何も出来ない』と額面通りに受け止めたのだろう。ゆえに諺の裏の意味を知っているエリザヴェータたちの大笑を誘ったのである。
- ^ ラズモフスキーがエカテリーナの許可を得てエリザヴェータの遺書を焼却した際にピョートルの命乞いをするのだが、その際「エリザヴェータ様は時に残酷な方でした。ですが20年間の在位期間中で誰一人処刑なさいませんでした。退位された廃帝(イヴァン6世)も含めて。」と述べている。
- ^ 第2代皇帝・エカテリーナ1世(在位:1725年〜1727年)、第3代皇帝・ピョートル2世(在位:1727年〜1730年)、第4代皇帝・アンナ・イヴァノヴナ(在位:1730年〜1740年)、第5代皇帝・イヴァン6世(在位:1740年〜1741年)
- ^ グレゴリオ暦に換算した在位期間は1762年1月5日から7月9日まで。
- ^ 彼の十八番でシリーズ中何度も演奏される曲はプレオブラジェンスキー近衛連隊行進曲である。劇中では「ペトロフスキー・マーチ」の名称が使用されている。
- ^ a b 後年、エカテリーナはフョードロヴィチが心優しい父親だと信じて疑わないパーヴェルに対し、「ピョートル・フョードロヴィチはそのような人ではなかった!」と罵っている。また、第四の愛人となったポチョムキンにも、フョードロヴィチについて"холодный мерзкий"と語っている。字幕では「冷酷で恐ろしい意地悪な男」と訳されているが、мерзкийは画像検索すれば解るように「キモい」というニュアンスを含んだ言葉である。
- ^ 要塞からの帰途、馬車の中でエリザヴェータがラズモフスキーに語った腹積もりを、気絶した振りをして聞いていた。
- ^ なお、フョードロヴィチを演じたアレクサンドル・ヤツェンコは「最も印象に残っているシーン」として、この胸像をぶつけたシーンを挙げている。
- ^ 帝政時代のロシア最大の歴史家ヴァシリー・クリュチェフスキーはピョートル3世を「彼は真面目な事柄を子供の目で眺め、子供っぽい気まぐれを一人前の男の真面目さで考えた。彼は自分を大人であると考えている子供であった。実際、彼は赤ん坊のままで大人になってしまった人間だ」と評している。
- ^ 逃亡の際、よほど慌てていたのか、宮廷に皇帝の封蝋印璽を置き忘れるという失態も演じた。
- ^ ジュゼッペ・タルティーニのバイオリン協奏曲ニ短調 D.45 第三楽章
- ^ グリゴリー・オルロフ大尉の弟
- ^ シーズン2ではその後の顛末が明かされる。彼の遺骸はエカテリーナの「直ちに埋葬せよ」との命令で慌ただしく葬られたため、木の十字架があるのみで、墓石も柵も無かった。埋葬場所も歴代の皇帝が眠るペトロパヴロフスキー大聖堂ではなく、アレクサンドル・ネフスキー大修道院であった。史実では検死も行われたが、皇帝の霊廟に葬られなかった理由は、戴冠していなかった事によるものである。劇中で一度はペトロパヴロフスキー大聖堂への再埋葬が検討されるが、事情が許さずそのままになる。エカテリーナの死後、後を継いだパーヴェルによって再埋葬式が行われ、エカテリーナの隣に葬られた。謎めいた突然の死から34年後の事であった。
- ^ 今日では「ロシア皇太子」と訳されるツェサレーヴィチの称号を帯びたのはパーヴェルが最初となる。なお、ピョートル3世はツェサレーヴィチの称号を帯びていない。詳細は「ツェサレーヴィチ」を参照
- ^ Ваше Высочество(ヴァーシヴィソーチストヴァ)
- ^ 正式には「ツェサレーヴィチ・パーヴェル・ペトロヴィチ(Цесаре́вич, Павел Петрович、邦訳は「皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ」)」。なお、シーズン2第7話「専制君主への道」ではホルモゴルイで幽閉されていたアントン・ウルリヒ公に面会した際[48]、「ヴェリーキー・クニャージ・パーヴェル・ペトロヴィチ(Великий князь, Павел Петрович、邦訳は「大公パーヴェル・ペトロヴィチ」)」としてエカテリーナから紹介されている。
- ^ 本作品ではどちらが父親なのか、はっきりとは示されない。幼児期の動作がフョードロヴィチに酷似しているように演出されており、エリザヴェータは「父親が誰かわからなくなってきた」とぼやいていた。養育係でもある宰相兼外相のパーニンは「フョードロヴィチに似ている」と言い、愛妾となるソフィアは「両方に似ている」と言うが、サルトゥイコフの子供だと信じているエカテリーナ自身はフョードロヴィチから「子供は置いていけ」と言われた際、「あなたの子供じゃないわ!」と発言、フョードロヴィチは「俺の子だ。俺に似ている」と激高した。そしてシーズン2では反抗期を迎え、フョードロヴィチに物事の好悪が類似し始め、エカテリーナを苛立たせる。嬉々として舞台を模したドールハウスで操り人形を動かして見せるのをエカテリーナは苦々しく思う。演劇と兵隊人形を愛していたフョードロヴィチを彷彿とさせたからである。また、エカテリーナはオルロフとのセックスの際、「本物のパーヴェルは死んで、エリザヴェータが侍女の子供とすり替えたとしたら?産んでから2年間も会っていなかったから」と、オルロフとの息子・アレクセイを跡継ぎにする根拠を「もしも」という前提で示してみせた。
- ^ 暗殺されたその時に弾いていたものである。
- ^ a b なお、エカテリーナ自身は「パーヴェルはまだ子供だから父親になる自覚なんてない」と決めつけていた。
- ^ フィンランド系ロシア人のため、姓が「トムニコヴァ」と女性形にならない。
- ^ 1774年3月19日付のエカテリーナ発ポチョムキン宛の手紙には以下のような記述が見られる。”О, Monsieur Potemkine, quel fichu miracle Vous avés opéré de déranger ainsi une tête, qui ci-devant dans le monde passoit pour être une des meilleures de l'Europe?”日本語訳:ああ、ムシュー・ポチョムキン。ヨーロッパ最高の頭脳の一つとして知られていた私の頭を、あなたはどんな奇跡を起こして台無しにしてしまったの?
- ^ シェシコフスキーの報告を受けたエカテリーナは「ルイ16世は”改革”でフランスを破滅させるだろう!」と語っていたが、その言葉は1789年に勃発したフランス革命によって現実のものとなり、ルイ16世もギロチン送りとなる。
- ^ エカテリーナがアレクセイを出産している間、フョードロヴィチが釘付けになっていた火事は彼らが自宅に火を放ったものである。
- ^ 史実では最終的には臣籍降下となり、1781年4月2日付けのエカテリーナの手紙によってエカテリーナの実子として認知された。
- ^ 話すのは好きでない、とは本人の弁。
- ^ 「山の息子の竜」の意。
- ^ 見送りに来たのはパーヴェルとパーヴェルの愛妾・ソフィアのみ。
- ^ パーヴェルは1796年にエカテリーナの死を受けて即位した5日後、アレクセイを伯爵に叙し、陸軍少将に任じた。
- ^ 史実では約1年
- ^ 北緯64度、ペテルブルクから1000キロ以上の道のりである。
- ^ 日本では慣例として「モスクワ公国」と呼ばれる。
- ^ 劇中での設定は"クニャージ・サルトゥイコフ"(公爵)。史実ではグラーフ(伯爵)。
- ^ 字幕ではポーランド皇太子だが、ここでは史実を優先する。
- ^ エリザヴェータに言わせれば「怠け者で気取り屋」。
- ^ 原語の台詞は「私に嘘をついたり騙したりしたら、あなたから王冠を取り上げて、あなたの玉座を私のトイレの便座にするわよ」Будете мне врать или хитрить – я заберу вашу корону, а из трона сделаю стульчак у себя в уборной.
- ^ a b ロシア・プロイセン・オーストリアによるポーランド分割は第一次(1772年)、第二次(1793年)、第三次(1795年)の3回に渡って行われた。この結果、ポーランドはその領土を全て奪いつくされて滅亡し、ポニャトフスキは退位させられた上でサンクトペテルブルクに連行される。その後、ポーランドは1918年にポーランド第二共和国として独立するまで地図上から姿を消した。なお、オーストリアはフランス王妃マリー・アントワネットが帝室出身であった関係からフランス革命に巻き込まれてしまい、第二次ポーランド分割には参加できなかった。
- ^ 劇中ではオルロフ姓を名乗りながら皇族に列せられる。
- ^ 映画評論家ボリス・トゥーフ(Борис Тух)による番組解説では「18世紀のバイアグラ」と表現されている。
- ^ エカテリーナとのセックスで出世の階段を駆け上がってきたという意味。
- ^ "Поручик"パルーチクは日本語字幕では"少尉"と翻訳されているが正しくは中尉であり、少尉は"Подпоручик"パドパルーチクである。
- ^ グリゴリー・オルロフの次にエカテリーナの愛人となったアレクサンドル・ヴァシーリチコフが登場していないため、本作品では第四の愛人として描かれているが、実際には五人目の愛人。
- ^ 日本語字幕では"全て"と翻訳されているが、元の台詞は"душ"=魂。
- ^ オスマン帝国軍との戦闘の最中、オルロフは敵兵の剣による打撃を頭部に受け落馬、とどめを刺されようとしたその時、敵兵を背後から斬り付けたポチョムキンにより辛くも命を救われる。直後、ポチョムキンもまた胸部に深傷を負うが、オルロフは彼に「負傷はしたが傷は浅い(ロシア語の台詞は「結婚式までには治る」)」という伝言とエカテリーナ宛の書簡を託し、ペテルブルクへ向かわせた。
- ^ フョークラによると「若く、逞しく、美形(молодой, крепкий, красавиц)」。
- ^ ポチョムキンを生かして利用したいパーニンから賄賂を押し付けられたエカテリーナ付きメイド頭のフョークラが、傷口にオトギリソウの軟骨を塗り、足に酢を塗るという"金持ちに施したところ高熱を出して死んでしまった"民間療法を試みていた。エカテリーナとオルロフが病室を訪れた場面では洗面器に酢を張り、含ませた布で足に塗っている。
- ^ この時、ポチョムキンが呟いたオイディウスの詩は前半がラテン語、エカテリーナと唱和した後半部分はそのロシア語訳である。"Не исцелишь мой раны, станет легкой жизни утрата."、「傷を癒やさなければ、」ではなく、「私の傷を癒やさないでくれ、」。
- ^ 海に入ろうとしたエカテリーナに思わず、「陛下(государыня、ガスダールニャ/グスダールニャ)」ではなく、「エカテリーナ・アレクセーエヴナ(Екатерина Алексеевна)」と名前で呼んでしまったこともある。
- ^ ラフタ海岸で撮影が行われた際には夕日を朝日に見立てて撮影している。
- ^ その後、第9話冒頭では宮殿の階段で降りてくるオルロフとすれ違うという"お約束"の場面も描かれる。
- ^ 元の台詞は「褒美」ではなく「金(ゴールド)」。ポチョムキンがモスクワ大学在学中に最優秀学生として金メダルを授与されたと話したことから。
- ^ エカテリーナを長らく肉体的に満足させている事から彼女の寵愛に余程の自信があったと見え、当初は弟の進言を聞こうとしなかったオルロフだが、ポチョムキン宛の手紙に記されたエカテリーナのプラトニックな愛を単なる冷やかしと見誤り、自分がポチョムキンを亡き者にしようがエカテリーナの寵愛は揺るがぬものと踏んだのだろう。弟と共にポチョムキンをリンチした結果、彼にとっては思いも寄らなかった突然の失脚となった。
- ^ 現在のウクライナ領・ドニプロ
- ^ 往復書簡内で登場したエピソードからの引用。往復書簡集によると、1774年2月21日付のポチョムキン宛書簡「心からの懺悔」(往復書簡No.10)が出された直後、深夜にポチョムキンがエカテリーナに会いに行こうとしたところ、女官たちを遠ざけるためにエカテリーナが使った方便をポチョムキンが真に受けて帰ってしまったことがあり、それによってエカテリーナは5日間も不眠に悩まされていたと恨み言を述べている。(不思議な恋文 女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡、p19の記述を参照)
- ^ 字幕では「すみません」「お許しを」と敬語に翻訳されているが、実際の"прости меня"は「ごめん」程度の砕けた言い方。敬語は"простите меня"と、語尾にтеを付ける。ロシア語の台詞を直接翻訳せず、(敬語が無い)英語の字幕を日本語に翻訳した事で起きる誤り。
- ^ 劇中では1773年からエカテリーナとポチョムキンの肉体関係が続いていたことになっているが、実際に2人が肉体関係を持っていたのは、1774年から1776年までとされている。2人の肉体関係がなぜ2年で終わったのかを巡っては諸説ある。ただ一つ言えることは、エカテリーナとの肉体関係が終わった後もポチョムキンが失脚することなく、ロシア帝国の発展に貢献してきたことであろう。1783年のクリミア併合後、ポチョムキンはノヴォロシア・クリミアの総督となり、1791年に亡くなるまでの間に黒海艦隊を創設するなど、クリミアを南下政策に欠かせない重要拠点へと発展させている。また、セックスなしでは生きていけないエカテリーナのために自分の息のかかった男たちをエカテリーナの寝室に愛人として送り込んだといわれている。
- ^ エリザヴェータの遺書を焼却した後に「なかなかの知恵者だったわね」とラズモフスキーを称賛したエカテリーナだが、グリゴリー・オルロフは「その知恵者を自由にしておいていいのか?エリザヴェータ・ペトロヴナの遺書で後継者に指名されていたんだぞ?」と不平を述べる。が、エカテリーナはラズモフスキーが遺書を焼却したことを理由に「いいえ、彼はもう”後継者”ではないわ」と返答している。
- ^ 字幕では伯爵(グラーフ)となっているが、実際には公爵(クニャージ)。
- ^ 「ロシアは森林の国である」と木造にこだわる女帝から計画は却下されていた。なお、CG(コンピュータグラフィックス)のエリザヴェータ夏宮のモデルとなり、撮影にも使われた美麗なクスコヴォ宮殿は木造である。
- ^ 字幕のベツコイの台詞「長い間刑務所にいた」は国外追放の事実を無視した誤訳。"Я треть жизни провел в изгнании."「国外追放で人生の3分の1を費やした」が正しい。
- ^ "Великая"(ヴェリーカヤ)、「偉大な」の意。
- ^ エカテリーナはその後、地方視察から帰還した後に肉体関係を持ったオルロフからもパーニンを昇進させるよう進言を受ける。実はエカテリーナの地方視察で留守居役を命ぜられていたオルロフはパーニンに「陛下(エカテリーナ)との結婚に賛成してくれれば宰相への昇進も夢ではない」と取り引きを持ちかけ、パーニンがその取り引きに乗ったからである。そしてエカテリーナは一連の進言を受けてパーニンに宰相と同等の権力と財産、50万ルーブルの給金を与えた。また、かつてパーヴェルが温めていた騎馬像の構想を思い出したエカテリーナは、ピョートル大帝の威光を保ち、その直系の血を権威付けるために、宮殿の側に大帝の巨大な騎馬像を建立する計画を実行に移すことになる。
- ^ 後の黒海艦隊
- ^ 史実では1768年~1771年の3年間
- ^ 劇中では科学芸術アカデミー長官と訳されているが、実際には総裁(プレジデント)。なお、総裁は次第に名誉職と化し、総裁と別に院長(ディレクトール)が責任者として設置され、1783年1月24日付けでエカテリーナ・ダーシュコワ公爵夫人が任命されている。
- ^ a b c 日本の宮内庁長官に相当する役職。後年、皇帝官房第一部の長官となり、宮内大臣とは別個の官職とみなされる。
- ^ 字幕では「石屋」と訳されている。
- ^ ダーシュコヴァ夫人が登場しない本作においてはエカテリーナの親友と言って差し支えないだろう。
- ^ 劇中では1768年から1769年の間に出産したことになっているが、実際には1772年。
- ^ 実際には離婚。
- ^ ポチョムキンによると「優しく、魅力的(нежный и чувствительный)」だという。
- ^ 身分の高い者に与えられる宮殿内の個室
- ^ パーニンは彼女をзнахаркаだと言っている。「伝統療法士」と訳しておく。
- ^ シェシコフスキーによる尋問で彼女は幼少期から両親の教えもあって口が硬いと告白した上で、オルロフから受け取った口止め料のおかげで衣服を買えたと使い道まで暴露していた。なお、シェシコフスキーは口止め料の使い道には関心を示さず、フョークラの口が硬いという証言についても「話を反らすな」と述べており、口止め料を受け取ったかどうかを確認したかったようである。
- ^ ピョートル大帝時代の1721年以来、ロシア正教会トップのモスクワ総主教庁は廃絶させられ、ロシア正教会を統括する最高機関として聖務会院が設置されていた。総主教庁が復活したのは革命によって帝政が崩壊した1917年、ティーホン総主教の総主教着座によってである。
- ^ 史実ではフランスと内通していた事が咎められ、首都から遠く離れた僻地に追放されていたが、エリザヴェータの死後皇帝の座に即いたフョードロヴィチは即刻彼を赦免した。
- ^ 史実ではエリザヴェータは侍女に足の裏をくすぐらせて性感を高めていたという。
- ^ 劇中ではジョージ(ロシア語発音ジョルシ)だが、実在のロジャーソンの名はジョン。
- ^ 劇中で制作された肖像画とは別に、ロコトフは幼少期のアレクセイの肖像画を制作している。
- ^ ロコトフはこのほかにも、パーヴェルの肖像画(ギャラリーに飾られていた)やオルロフの肖像画(エカテリーナの寝室に飾られていた)も制作している。
- ^ 字幕の「サルトゥイチカ」は誤り。それでは蔑称でなく愛称になってしまう。
- ^ この事件が明るみに出たのはエカテリーナが即位した1762年のことである。
- ^ パーヴェルの家庭教師を務めていたセミョーン・アンドレヴィチ・ポローシンのこと。
- ^ オルロフは一目見るなり「ゲットーのようだ」と感想を述べた。
- ^ 海軍の軍人として出征した弟のアンドレイも出世し、エカテリーナから自身と同じ褒美を与えられた。
- ^ ちなみに聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を受領したオブレスコフ大使は副賞として20万ルーブルを与えられている。
- ^ ツァーリズムによる統治体制は1906年の国家基本法発布による立憲君主制への移行を経て、1917年の二月革命による帝政崩壊まで続くことになる。
- ^ 急な事で、女帝の行幸にしては馬車一台に数人の兵士が護衛するのみの簡素な一行であった。
- ^ エカテリーナが1764年に創立させた、ロシア帝国における女子教育の中心地。1917年の十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキ(後のソビエト共産党)の拠点となったスモーリヌイ修道院に隣接している。
- ^ 日本語字幕版での呼称
- ^ 日本初放送となったチャンネル銀河版ではシーズン1は10話構成となっているが、ロシアテレビでの初回放送分は12話構成となっている。
- ^ 同年6月17日から再放送も行われたほか、2019年5月7日から2度目、2020年12月10日からは3回目の再放送が行われる。
- ^ 日本テレビHulu傑作シアターで午前4時10分から関東地方限定
- ^ なお、1時間の放送枠に収めるためにいくつかのシーンがカットされていると思われる。
- ^ 2019年6月17日から再放送が行われた。
- ^ シーズン2の野戦シーンを撮影
- ^ パビリオンを使用
出典
- ^ a b 7days.ru. “МАРИНА АЛЕКСАНДРОВА ИЗМЕНИЛА ХОД ИСТОРИИ” (2019年7月30日). 2019年8月7日閲覧。
- ^ Ekaterina - ロシア1公式サイト
- ^ “Хлопай реформами и взлетай”. コムソモリスカヤ・プラウダ (2017年3月3日). 2018年5月8日閲覧。
- ^ シーズン3の放送開始日時を公表したインスタグラム - 2019年10月15日閲覧。
- ^ "Екатерины": сериал лидирует среди телепроектов недели (Russian report)
- ^ “Российская индустриальная телевизионная премия «ТЭФИ». Номинации 2015 года”. // tefitv.ru(2015年テフィー賞の公式ホームページ). 2019年7月20日閲覧。
- ^ “«Физрук» и «Мажор» стали самыми успешными сериалами 2014 года”. Информационное агентство России «タス通信» (2015年3月20日). 2019年7月20日閲覧。
- ^ “"Екатерина. Взлет. Идут съёмки"”. ロシア1 (2016年11月15日). 2016年11月30日閲覧。
- ^ シーズン3の出演者一覧(随時更新)
- ^ ロシアテレビのインタビューを受けるエカテリーナ役のマリーナ・アレクサンドロワ - 2019年1月20日閲覧。
- ^ シーズン4「エカテリーナ〜お気に入り〜( Екатерина. Фавориты)」の制作発表 – 2022年8月5日閲覧。
- ^ シーズン4「エカテリーナ〜お気に入り〜( Екатерина. Фавориты)」への出演を発表したエカテリーナ役のマリーナ・アレクサンドロワのインスタグラムへの投稿 – 2022年8月5日閲覧。
- ^ Александр Акопов: «Индустрия выглядит достаточно зрело, но общий дефицит кадров сохраняется» // «Вокруг ТВ» - 2020年3月19日
- ^ Начало съёмок сериала «Елизавета»
- ^ 7days.ru. “МАРИНА АЛЕКСАНДРОВА РАСШИФРОВАЛА ТАЙНЫЙ ЗНАК” (2016年8月3日). 2019年8月8日閲覧。
- ^ Вести.Ru“Премьерные серии киносаги "Екатерина. Взлет" покорили россиян”. 2018年6月20日閲覧。
- ^ RusActors.Ru “Екатерина. Взлёт - Рецензия на кино видео фильмы”. 2018年5月8日閲覧。
- ^ a b “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#1 野望の旅へ”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#2 毒殺の宮廷”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#3 密偵となった母”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#4 偽りの初夜”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#5 最初の愛人”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#6 女帝の陰謀”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#7 愛と忠誠の将校”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#8 陰謀うずまく伏魔殿”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#9 女帝崩御”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ “ピョートル1世が妻のために聖エカテリーナ勲章を創設”. RUSSIA BEYOND (2012年12月7日). 2019年1月25日閲覧。
- ^ a b “Пётр III и Екатерина II”. Православный интернет-журнал. 2019年1月26日閲覧。
- ^ a b “ロシア皇室の醜聞:ロマノフ家の4大セックス・スキャンダル”. RUSSIA BEYOND (2018年8月10日). 2018年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season1#10 逆転の暗殺”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b “ロシア版「仮面の男」:なぜロイヤル・ベビーは死ぬために牢獄へ送られたのか?”. RUSSIA BEYOND (2018年2月15日). 2018年5月12日閲覧。
- ^ ロシアの歴史ドラマ『女帝エカテリーナ』が2月日本初放映 愛欲と権謀の「王冠をかぶった娼婦」 - スプートニク (通信社)
- ^ a b “ロシア皇帝の称号 – ロシア学事始”. ロシア学事始 (2013年1月17日). 2018年12月10日閲覧。
- ^ a b c “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#1 宿敵オスマン”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#2 愛人の帰還”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#3 不吉な前兆”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ “勝利の象徴「ゲオルギー・リボン」:草の根の運動が国家的キャンペーンに”. RUSSIA BEYOND (2018年5月9日). 2019年1月6日閲覧。
- ^ 神戸保「ジャガイモ」『生活衛生』第29巻第3号、大阪生活衛生協会、1985年、177-177頁、doi:10.11468/seikatsueisei1957.29.177、ISSN 0582-4176、NAID 130003877482。
- ^ ロシヤへ =昔は嫌った【ジャガイモ博物館】 – 2019年1月4日閲覧。
- ^ サツマイモ 「どこからきたの?」 農林水産省こどもページ(2018年12月6日閲覧)。
- ^ a b c d e f g h i j k l “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#4 死の献上品”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#5 女帝 試練の時”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ Константин Аркадьевич Губастов (2003). Генеалогические сведения о русских дворянских родах, происшедших от внебрачных союзов. Нестор-История. p. 41.
- ^ Отвѣтъ о обручаніи и о вѣнчаніи // Стоглавъ, Соборъ бывшій въ Москвѣ при Великомъ Государѣ Царѣ и Великомъ Князѣ Иванѣ Васильевичѣ (въ лѣто 7059). — Лондонъ: Trübner & Co., 1860. — С. 58.
- ^ “基本国家法典 – ロシア学事始”. ロシア学事始 (2013年1月17日). 2019年1月10日閲覧。
- ^ “ロシアの皇位継承法の変遷 – ロシア学事始”. ロシア学事始 (2013年1月17日). 2019年1月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」Season2#6 後継者選び”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#7 専制君主への道”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#8 情事の行方”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ 阿部重雄『ピョートル大帝と北方戦争』(大類伸監修、林健太郎・堀米庸三編『世界の戦史 第六巻 ルイ十四世とフリードリヒ大王』に収録)人物往来社、1966年。p.136.
- ^ アンリ・トロワイヤ 著、工藤庸子 訳『大帝ピョートル』中央公論新社、1981年。ISBN 978-4120010552。 p. 122.
- ^ a b “「青銅の騎士」除幕式”. ロシア・ビヨンド (2012年8月7日). 2018年5月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#9 失脚する愛人”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ “敵に畏敬の念を抱かせたロシア海軍の大勝利3選”. RUSSIA BEYOND (2018年9月25日). 2019年2月10日閲覧。
- ^ a b c d “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#10 スルタン 死す”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ ”Увлечение любовью к Потемкину помешало Екатерине внимательнее и более критично присмотреться к Вильгельмине” RUTV.NET “Смотреть «Екатерина» — 2 сезон 11 серия онлайн”. 2018年5月8日閲覧。
- ^ a b c d “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#11 花嫁の背信”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “宮廷歴史ドラマ「エカテリーナ」 Season2#12 愛と祈りと”. チャンネル銀河. 2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b Найдены останки генералиссимуса Антона Ульриха Брауншвейгского - プラウダ・オンライン、2007年7月17日配信、2019年2月17日閲覧。
- ^ “АКТЕР АЛЕКСАНДР ЯЦЕНКО ПРИМЕРИЛ ЖЕНСКОЕ ПЛАТЬЕ В СЕРИАЛЕ «ЕКАТЕРИНА»”. KLEINBURD NEWS (2014年11月25日). 2018年12月13日閲覧。
- ^ 引用元:新人物往来社"皇女アナスタシアとロマノフ王朝-数奇な運命を辿った悲運の王家-"
- ^ “エカテリーナ2世がクーデター”. RUSSIA BEYOND (2013年7月9日). 2019年2月19日閲覧。
- ^ «Екатерина. Взлёт». Оборотная сторона величия
- ^ 別冊歴史読本「皇女アナスタシアとロマノフ王朝」新人物往来社
- ^ 撮影の様子は"Утро России. Эфир от 14.07.16"で動画検索。28:30~
- ^ 「エカテリーナ」公式サイト - チャンネル銀河
- ^ 「エカテリーナ」見どころ - チャンネル銀河
- ^ “EKATERINA: THE RISE OF CATHERINE THE GREAT' (2014) SEASON 1 REVIEW”. 2017年11月2日閲覧。
- ^ “Amazon Video Debuts Excellent Russian TV Series About Catherine the Great” (2017年7月13日). 2017年11月2日閲覧。
- ^ 日本初放送を伝えるロシアのニュースサイト
- ^ 【「王冠をかぶった娼婦」と呼ばれたロシア最強女帝】「エカテリーナ」2018年2月より日本初放送スタート!第1話は無料放送! - チャンネル銀河公式サイト
- ^ エカテリーナ女帝の愛欲は日本の観客の共感を呼ぶのか - スプートニク (通信社)、2018年1月13日配信。
- ^ Российский исторический сериал "Екатерина" впервые будет показан в Японии - タス通信、2018年2月10日配信。
- ^ 「エカテリーナ」公式サイト - BS日テレ、2019年1月4日閲覧。
- ^ “「エカテリーナ」Season1~3”. チャンネル銀河. 2020年11月21日閲覧。
- ^ mayaksbor.ru. “В Сосновом Бору снимают продолжение исторического сериала "Екатерина"” (2018年9月19日). 2019年5月19日閲覧。
- ^ 画像
- ^ 7days.ru. “МАРИНА АЛЕКСАНДРОВА ЗАВОЕВАЛА СЕРДЦЕ АЛЕКСАНДРА ЯЦЕНКО” (2014年9月17日). 2019年8月8日閲覧。
- ^ wday.ru. “«Екатерина. Самозванцы»: как снимают третий сезон сериала” (2018年11月27日). 2018年11月27日閲覧。
- ^ ナポリ・シチリア(後の両シチリア王国)王妃マリア・カロリーナ・ダズブルゴ役の オリガ・マケーエヴァの結髪の様子
- ^ 7days.ru. “МАРИНА АЛЕКСАНДРОВА НАПУГАЛА КИТАЙСКИХ ТУРИСТОВ” (2017年2月22日). 2019年8月8日閲覧。
- ^ tele.ru. “Сериал «Екатерина»: самые громкие цифры” (2018年11月23日). 2019年5月15日閲覧。
- 1 エカテリーナ (テレビドラマ)とは
- 2 エカテリーナ (テレビドラマ)の概要
- 3 放送履歴
- 4 ストーリー
- 5 登場人物
- 6 主要登場人物の呼び方
- 7 各放送回のタイトル
- 8 制作秘話
- 9 関連項目
「エカテリーナ (テレビドラマ)」の例文・使い方・用例・文例
- エカテリーナ (テレビドラマ)のページへのリンク