アフシャール朝とは? わかりやすく解説

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アフシャール朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 04:03 UTC 版)

アフシャール朝
افشاریان (ペルシア語)
1736年 - 1796年
国旗 国章
公用語 アフシャール語英語版宮廷語)
ペルシア語
首都 マシュハド
シャー
1736年 - 1747年 ナーディル・シャー(初代)
1747年 - 1748年 アーディル・シャー(第2代)
1748年 - 1748年 イブラーヒーム(第3代)
1748年 - 1750年 シャー・ルフ(第4代)
1750年 - 1750年 スライマーン2世(第5代)
1750年 - 1796年 シャー・ルフ(復位、最後)
変遷
成立 1736年
滅亡 1796年
イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
グレコ・バクトリア王国
アルサケス朝
サーサーン朝 エフタル
正統カリフ
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝 クルト朝
カラ・ヒタイ朝英語版
イルハン朝
インジュー朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝 ドゥッラーニー朝
パフラヴィー朝 アフガニスタン王国
アフガニスタン共和国
アフガニスタン・イスラム国
タジク共和国
イラン・イスラム共和国 アフガニスタン・イスラム首長国 タジキスタン共和国

アフシャール朝ペルシア語: افشاریان、アフシャーリヤーン)は、イランペルシア)の王朝で、首都マシュハドナーディル・クリー・ベグによって建てられた。

歴史

初代・ナーディルの勢力拡大

ナーディル・クリー・ベグ(ナーディル・シャー)は、サファヴィー朝アッバース3世摂政として、ホータキー朝オスマン朝を破って、旧サファヴィー朝が失った領土のほとんどを回復し、一時ペルシアの覇権を握った。1736年にサファヴィー朝のアッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーとして即位した。ナーディル・シャーはバルーチスターンへ侵攻し、カルホラ英語版を占領した。晩年になるとナーディルは息子を盲目にしたり、甥の息子ら親族を大量に殺したり、市民や役人を殺戮したりした。この反動により、1747年に部下の兵士らによって暗殺された。

衰退・抗争期

ナーディル・シャー暗殺直後(1747年12月ごろ)のイラン

ナーディルの死後、跡を継いだのは暗殺に一枚噛んでいたとされるアーディル・シャーであった。彼はナーディルの直系親族を一部を例外として殺戮したが、弟のイブラーヒームに背かれて廃されたが、イブラーヒームも有力者の支持を得られず、すぐに廃された。

2人に代わって擁立されたのがナーディルの嫡孫であるシャー・ルフであったが、1750年、シャー・ルフは有力者によって退位させられ、サファヴィー朝の末裔とされるスライマーン2世が傀儡として即位した。しかし、すぐに亡き祖父ナーディルの旧臣らが反乱を起こしてシャー・ルフは復位した。

滅亡

以後のシャー・ルフは有力者の傀儡として利用された。そして、1796年アーガー・モハンマド・シャーマシュハドを占領することでアフシャール朝は滅亡し、カージャール朝に取って代わられた。

歴代君主

  1. ナーディル・シャー1736年 - 1747年
  2. アーディル・シャー1747年 - 1748年
  3. イブラーヒーム1748年
  4. シャー・ルフ1748年 - 1750年
  5. スライマーン2世(1750年)
  6. シャー・ルフ(1750年 - 1796年、復位)

系図

 
 
 
 
 
バーバ・アリー・ベク
アビーワルド地方長官
 
 
 
 
 
 
 
イマーム・クリー・ベグ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サファヴィー朝
 
 
ナーディル・シャー1
 
 
ムハンマド・イブラーヒーム・ハーン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ファーティマ・スルターン・ベーグム
スルターン・フサインの娘)
 
 
 
レザー・クリー・ミールザー
 
 
 
 
 
アーディル・シャー2
 
イブラーヒーム3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャー・ルフ4,6
 


外部リンク


アフシャール朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)

アフガニスタンの歴史」の記事における「アフシャール朝」の解説

詳細は「アフシャール朝」を参照 ペルシャ王位就いたナーディルはナーディル・シャー名乗ってカンダハールカーブル進撃した1738年に両都市攻略しインド向かったインドでは、アブダーリー族親衛隊がナーディルを助けた。彼はムガル帝国軍を下しデリー陥落させ、ペルシャ戻ったその後オスマン帝国サマルカンドヒヴァブハラ出征続けた1747年部下殺害された。親衛隊率いていたアフマド・ハーン・アブダーリーことアフマド・シャー・ドゥッラーニーは何とかカンダハールへ戻ることができた。

※この「アフシャール朝」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「アフシャール朝」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。

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