アフガニスタン王国とは? わかりやすく解説

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アフガニスタン王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/26 14:58 UTC 版)

アフガニスタン王国
د افغانستان واکمنان(パシュトー語)
پادشاهي افغانستان(ペルシア語)
1926年 - 1973年
国旗 国章
国歌: ای شاهِ غیور و مهربانِ ما英語版(アラビア語)
私たちの勇敢で高貴な王
公用語 パシュトー語
ペルシア語
宗教 スンナ派イスラム教
首都 カーブル
国王
1926年 - 1929年 アマーヌッラー・ハーン
1929年 - 1929年 イナーヤトゥッラー・シャー
1929年 - 1929年 ハビーブッラー・カラカーニー英語版
1929年 - 1933年 ムハンマド・ナーディル・シャー
1933年 - 1973年 ザーヒル・シャー
首相
1929年 - 1946年 ムハンマド・ハーシム・ハーン
1972年 - 1973年 モハマッド・ムサ・シャフィク
面積
1973年 647,500km²
人口
1973年 11,966,400人
変遷
アフガニスタン首長国から改名 1926年6月9日
王政廃止 1973年7月17日
通貨 アフガニ
現在 アフガニスタン

アフガニスタン王国(アフガニスタンおうこく、パシュトー語: د افغانستان واکمنان, Dǝ Afġānistān wākmanānペルシア語: پادشاهي افغانستان, Pādešāhī-ye Afġānistān)は1926年アフガニスタン首長国の後継国家として成立した国。初代国王アマーヌッラー・ハーンが首長に即位した7年後、王を称したことで成立した。

歴史

アマーヌッラー・ハーンはソビエト連邦との間で中立条約を結び[1]、国の安定化、現代化を務めたが、保守勢力の反発で社会不安が生じた。1927年のヨーロッパ訪問中に反乱が再び勃発すると、彼は弟イナーヤトゥッラー・シャーに譲位したが、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか3日後に反乱の指導者ハビーブッラー・カラカーニー英語版に権力を奪取された。その後、ハビーブッラー・カラカーニーは国制を首長国に戻した。

10か月後、アマーヌッラー・ハーンの国防相ムハンマド・ナーディル・シャーが逃亡先のイギリス領インド帝国から帰国した。彼の軍勢はイギリスの支援を受けてカーブルを奪回、ハビーブッラー・カラカーニーは停戦を提案したが、逮捕されて処刑された。ムハンマド・ナーディル・シャーは国制を王国に戻し、1929年10月に国王に即位した後、アマーヌッラー・ハーンの改革を元に戻した。1933年にはその息子ザーヒル・シャーが即位、1973年まで統治した。

ザーヒル・シャーの治世中、アフガニスタンははじめてソビエト連邦フランス第三共和政イギリスアメリカ合衆国など諸外国との外交関係を樹立[2]、1934年9月27日には国際連盟に加入した。第二次世界大戦中、アフガニスタンは中立にとどまった。戦後は非同盟外交の政策を採用、1953年から1963年までの首相ムハンマド・ダーウードはアフガニスタンの現代工業教育の発展に尽力した。1973年、ザーヒル・シャーはいとこのムハンマド・ダーウードによって廃位された(1973年アフガニスタンのクーデター)。ムハンマド・ダーウードは王政を廃止、アフガニスタン共和国を建国した。

脚注

  1. ^ 「アフガニスタンと中立条約を結ぶ」『大阪毎日新聞』1926年9月3日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.356 毎日コミュニケーションズ 1994年)
  2. ^ Rubin, Barnett. "DĀWŪD KHAN". In en:Ehsan Yarshater [in 英語] (ed.). Encyclopædia Iranica (Online ed.). United States: Columbia University. 2009年3月20日閲覧

関連項目


アフガニスタン王国

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アフガニスタンの歴史」の記事における「アフガニスタン王国」の解説

アマーヌッラー・ハーン1921年にはソビエト友好条約締結し1923年にはアフガニスタン史上初の憲法制定立憲君主制への移行踏み出した憲法では、王権絶対制と世襲制イスラム教国教化規定する一方で評議会設置大長老会議の招集、各大臣からなる内閣規定など、さまざまな権能分散化図られた。1926年には歴代君主の称号であるアミールをやめ、シャーパーディシャー)に変えた(アフガニスタン王国)。しかし急激な改革保守的な層(ウラマーなど)からの反発招き1929年には首都カーブル反乱がおきた。混乱回避するためにアマーヌッラーは退位しイタリア亡命、ハビーブッラー・ガーズィー(英語版)がアミール自称して一時政権奪った1929年1月17日-10月13日まで)。 1929年ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱収めて王位につき、1931年にはよりイスラーム色強めた新憲法発布した。しかしナーディル・シャー暗殺され1933年11月息子ザーヒル・シャー19歳王位継いだ首相として実際政権担っていたのはナーディル・シャーの弟のムハンマド・ハーシム・ハーンであり、1946年から1953年まではシャー・マフムード(英語版)、その後ムハンマド・ダーウード首相継いだ。このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャー2代区別してナーディル・シャー朝と呼ぶこともある。ナーディル・シャー朝では、ウラマーとの妥協図られパシュトゥーン人色が強まった1953年9月ザーヒル・シャー従兄弟で、親ソ急進派ムハンマド・ダーウード首相に就任ウラマー会議改革反発して反政府キャンペーン組織すると、ダーウードはウラマー弾圧した旧世代ムッラー社会対す影響力を失うにつれ、学生達を中心により急進的なイスラーム主義勢力台頭した世論反発受けて1963年3月10日ザーヒル・シャーはダーウード首相退陣させた。1963年3月末から7名から成る憲法委員会会合開き1年近くわたって作業続け憲法草案提出した。この草案32から成る憲法諮問委員会によって徹底的に検討され1964年9月憲法草案検討し正式に承認するためのロヤ・ジルカが招集されることになったできるだけ全国民意見反映するものとなるように、各州代議員選出するための全国間接選挙が行われ542名(うち女性は4名)がえらばれた。このジルカでの議論は主に王族役割と、司法制度性質についてのものだった。王族政党参加してならないという条項入れた法律裁判所制度について近代化主義者意見通ったまた、国内強制移動強制労働問題についても強い反対意見出された。新憲法には二院制議会シューラ)で、秘密投票選出される定員216名の下院(ウォレシ・ジルカ)と、一部選挙一部国王任命にて委員84の上院(メシラノ・ジルカ)が定められた。しかし、政党結成問題は、政党法準備されるまで先送りされた。また、州及び地方自治体地方議会選挙で選ぶ方法審議延期された。2週間経過しないでロヤ・ジルカ審議終了してしまい、1964年10月1日国王新憲法署名し施行された。しかしながらこのような態度は、急進改革派の不満をまねいた

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