国教化
国教化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:22 UTC 版)
陳勝・呉広の乱後、項羽を倒して中華を再統一した劉邦は、漢(前漢)を建国した。そして地域差のある氏族制解体に対応するため、郡国制を採用し、黄老思想(黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。この政策は文帝・景帝にも引き継がれた。道家系の黄老思想が流行る中で、叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。 武帝のとき、漢は匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。班固『漢書』によれば儒者・董仲舒は五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けたという(ただし、『史記』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてという説もある)。武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の公孫弘のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された。 また、五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。 前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝のときには経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。 董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した。 前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の王莽も後漢の光武帝も盛んに利用した。一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。
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