国文学への目覚め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:45 UTC 版)
1917年(大正6年)3月、植木尋常小学校を卒業し、4月に熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)に入学。1年生の時に級友の丸山學(のち広島高等師範学校教授を経て熊本商科大学学長)、中川軍太郎らと回覧雑誌『護謨樹(ゴムノキ)』を作り、短歌・俳句・詩を発表して文芸に親しむようになった。 1918年(大正7年)の9月から肋膜炎に罹り、翌1919年(大正8年)3月まで休学した。詩「人は死ぬものである」の内容から、独特の死生観を思索し、少年期から徹底した悟達ぶりが見て取れる。その後『護謨樹』に板井一明が参加し、新たに『耕土』を発行して卒業後も続けた。 1923年(大正12年)3月、中学済々黌を卒業し、4月に広島高等師範学校(現・広島大学教育学部の母体)文科第一部(国語漢文専攻)に入学。国文学の教授・斎藤清衛博士から強い影響を受け、古典精神へ傾倒していった。蓮田は同校の学芸部の校友会誌『曠野』の編集委員となり、詩や小説、評論などを発表。その文名を謳われた。学芸部の代表委員をしていた4年の時の後輩に2年の清水文雄(年齢は清水が最年長)、1年の栗山理一、池田勉がいた。
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