神仏分離とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 神仏分離の意味・解説 

しんぶつ‐ぶんり【神仏分離】


しんぶつぶんり 【神仏分離】

明治政府神道国教化するために行った政策で、一八六八慶応四)年三二八日、神仏判然令を出し神社内にある仏像仏具経典などの除去命じたここにこれまで続いた神仏習合禁止され神官たちによる排仏毀釈が盛んになり、別当社僧などは一度還俗してから神官させられた。→ 排仏毀釈

神仏分離(しんぶつぶんり)


神仏分離

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/16 09:29 UTC 版)

神仏分離に伴う廃仏毀釈の運動で破壊されたとみられる石仏(神奈川県川崎市麻生区[1]

神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合慣習を禁止し、神道仏教神社寺院とをはっきり区別させること。

その動きは早くは中世から見られるが[注釈 1]、一般には、広義では、江戸時代中・後期以後の儒家神道国学復古神道に伴うものを指し、狭義では、明治新政府により出された神仏分離令又は神仏判然令と総称される一連の通達[注釈 2]に基づき、全国的に公的に行われたものを指す。

近世の神仏分離

江戸時代に入ると、儒学の発展・藩学の興隆により神仏分離政策が行われた。出雲大社でも17世紀に神仏の判然が行われている。

また、宮中では東山天皇の時代に、大嘗祭の復興が起こった。その際に、歴代天皇の位牌や仏像・仏画類を宮中にてどうすべきか、長年宮中に定着してしまった神仏の習合の実態から論争になった。しかし、その後大嘗祭と奉幣使再興などが行われるたびに宮中のみならず京都市中や他地域に対しても仏教排除が命じられた。そして、孝明天皇即位の際には公家たちの間で、即位灌頂に反対する意見も出された[5]

明治時代の神仏分離

明治時代初期、政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令又は神仏判然令と総称される一連の通達を発した[3][6]。神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった[7]。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた[7]

例えば、愛媛県野間郡県村(現今治市)の庄屋に伝わる文書には、明治2年(1869年)に神祇官事務局の役人が郡を回って次の七か条を示し、即刻実施することを求めたとの記録がある。

  1. 神社の白木の鳥居はそのままでよいが、塗ってあるものは白木にしかえること、その場合の鳥居の形は下の貫手の両端を出さぬようにすること
  2. 神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと
  3. 寺院にある神体も同様にして神社へ渡すこと
  4. これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること、
  5. このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札をすぐに用意すること
  6. もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと、
  7. 神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと[8]

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。また地方の神官国学者は、旧来の宗教政策とは学問上距離を置いていたこともあり、寺院に反感を持っていた民衆との親和性が増したことも要因と言える。[要出典]

政府の神仏分離政策は、明治5年(1872年3月14日神祇省廃止・教部省設置の段階での、祭教政一致の頓挫が着目される。これは特に平田派の国学者が主張する、古代にあった政体の理想が当時の実情には合わなかったことが挙げられるが、実際には神道の伝統や性質上において宗教化・国教化は正確には困難なこと、西洋列強が行う布教活動の盛況さに対する国内の危機意識により、僧侶との協力がなくては日本特有の風土を守れないとする実情があった。[要出典]そこで、浄土真宗島地黙雷からの具申をきっかけとして、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命され、神仏共同布教体制ができあがってゆく。これにより、西洋列強の推進するキリスト教の日本人への布教活動への対抗でもあったが、列強により強く反発もされ、信教の自由の保証を逆に求められる事態となる。結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する禁教令が廃止され、明治8年(1875年)には大教院を閉鎖、明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、この政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が後に採用されてゆく[9]

神仏分離政策は、文明開化当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものでもある。これは、修験道陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた[9]

脚注

注釈

  1. ^ 宮中においても即位灌頂大元帥法御斎会をはじめとする仏教儀礼の導入が行われる一方で、斎宮の忌み詞を始め、神仏隔離・神事優先の原則が古代より一環として守られている分野が存在しており、公家社会においても仏事と神事の間では神事優先の理念が強かった[2]
  2. ^ 慶応4年3月13日から明治元年10月18日までに、神仏分離に関する太政官布告神祇官事務局太政官達など一連の通達が出された[3]。狭義では、このうち明治元年3月28日に発せられた神祇官事務局達を神仏判然令という[4]

出典

  1. ^ 明治初年 柿生にも起きた廃仏毀釈運動を考える(1)」(PDF)『柿生文化』第62号、柿生郷土史料館、2003年7月1日、 オリジナルの2024年6月29日時点におけるアーカイブ。 
  2. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p.168-169・172
  3. ^ a b 太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など
  4. ^ 明治元年(1868)3月 神仏分離令が出される”. 公文書に見る日本のあゆみ. 国立公文書館. 2023年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月29日閲覧。
  5. ^ 山口和夫「神仏習合と近世天皇の祭祀」(初出:島薗進 他編『シリーズ日本人と宗教1 将軍と天皇』(春秋社、2014年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P352-356)
  6. ^ 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社。 
  7. ^ a b 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版。 
  8. ^ 愛媛県史 学問・宗教 二 廃仏毀釈”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター (1985年3月31日). 2022年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月29日閲覧。
  9. ^ a b 伊藤聡『神道とは何か』中央公論新社〈中公新書〉。 

参考文献

  • 桜井好朗『神々の変貌 社寺縁起の世界から』(東京大学出版会 1976年、新版2009年 / ちくま学芸文庫、2000年3月)
  • 桜井好朗『中世日本文化の形成 神話と歴史叙述』(東京大学出版会 1981年4月)
  • 桜井好朗『隠者の風貌 隠遁生活とその精神』(塙書房<塙選書> 1967年)
  • 桜井好朗『日本の隠者』(塙書房<塙新書> 1969年、新版1986年 / オンデマンド版 2005年)
  • 桜井好朗『中世日本人の思惟と表現』(未来社 1970年)
  • 桜井好朗『中世日本の精神史的景観』(塙書房 1974年、新版1986年)
  • 桜井好朗『吉野の霧 太平記』(平凡社名作文庫 1978年7月 / 吉川弘文館「読みなおす日本史」 2016年)
  • 桜井好朗『空より参らむ 中世論のために』(人文書院 1983年6月)
  • 桜井好朗『中世日本の王権・宗教・芸能』(人文書院 1988年10月)
  • 桜井好朗『祭儀と注釈 中世における古代神話』(吉川弘文館 1993年9月)
  • 桜井好朗『儀礼国家の解体 中世文化史論集』(吉川弘文館 1996年6月)
  • 桜井好朗『中世日本の神話と歴史叙述』(岩田書院 2006年10月)
  • 桜井好朗『神と仏 仏教受容と神仏習合の世界』(春秋社(大系仏教と日本人) 1985年、新版2000年)
  • 安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波書店岩波新書 黄版103〉、1979年。ISBN 4-00-420103-9 
  • 伊藤聡『神道とは何か』中央公論新社中公新書〉、2012年。ISBN 978-4-12-102158-8 
  • ジェームス・E・ケテラー『邪教/殉教の明治 廃仏毀釈と近代仏教』ぺりかん社、2006年。ISBN 4-8315-1129-3 
  • 佐伯恵達『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち 改訂版』鉱脈社、2003年。ISBN 4-86061-060-1 
  • 羽賀祥二『明治維新と宗教』筑摩書房、1994年。ISBN 4-480-85670-6 
  • 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版、2009年。ISBN 978-4-407-31659-9 
  • 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社、2009年。ISBN 978-4-634-01302-5 
  • 岡田荘司『日本神道史』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-08038-5 

関連項目


神仏分離

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 15:25 UTC 版)

阿賀神社」の記事における「神仏分離」の解説

阿賀神社ほどなくして再建されたが、成願寺遅れて江戸時代寛永17年1640年)に宝寿院行承と弟子の祐盛が本堂鐘楼建立してようやく復興した。だが、僧坊復興はかつてほどではなかった。しかし、延宝年間1673年 - 1681年)になり、成願寺村人赤神山一帯入会地めぐって争い成願寺村人幕府訴え事件起きた以後70年あまりの間、両者いがみ合い続けたがついに村人側勝訴した。 その結果阿賀神社神主村人氏子一年ごとに新しく任命し派遣する当番神主制が採用され、ここに阿賀神社成願寺管理下から離れることとなった宝暦3年1753年)、成願寺奥之院にあった太郎坊大権現像の他にいくつかの仏教関係の宝物を麓の成願寺本堂移して太郎坊大権現称し阿賀神社成願寺奥之院新たに阿賀神社本殿改め太郎坊宮称するようになった。ここに、いまだ神仏習合形態ではあるが阿賀神社成願寺分かれる事となった。 1868年明治元年)、神仏分離によって阿賀神社成願寺は完全に分離し1872年明治5年)には修験道廃止され1876年明治9年になって太郎坊宮という名称は規制を受け、正式名称阿賀神社とした。だがしばらくすると太郎坊宮という名称は通称として使われるようになった。なお、当社村社に列せられている。 1909年明治42年)、近隣10社の神を相殿祀り1924年大正13年)には本殿改築行っている。 太平洋戦争後、神社本庁別表神社に加列されている。 1962年昭和37年)、麓から成願寺境内通って阿賀神社に至る石段参道しかなかったところ、陸上自衛隊の手によって自動車成願寺経由阿賀神社にまで直接行ける太郎坊産業道路作られる。後に道は瓦屋寺にまで伸ばされた。 2007年平成19年)、東近江市選出した東近江八景選ばれる2013年平成25年)、夫婦岩東近江市天然記念物指定される

※この「神仏分離」の解説は、「阿賀神社」の解説の一部です。
「神仏分離」を含む「阿賀神社」の記事については、「阿賀神社」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「神仏分離」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「神仏分離」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「神仏分離」の関連用語


2
廃仏毀釈 デジタル大辞泉
78% |||||


4
72% |||||

5
吉水院 デジタル大辞泉
54% |||||

6
島地黙雷 デジタル大辞泉
54% |||||

7
平泉寺 デジタル大辞泉
54% |||||

8
本地垂迹説 デジタル大辞泉
54% |||||

9
神宮寺 デジタル大辞泉
54% |||||


神仏分離のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



神仏分離のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
岡山県神社庁岡山県神社庁
since 2025 (C)Okayamaken Jinjacho
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの神仏分離 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの阿賀神社 (改訂履歴)、根津権現 (改訂履歴)、弁才天 (改訂履歴)、成願寺 (東近江市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS