神仏の習合と隔離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:46 UTC 版)
このように、奈良時代まで神身離脱説や護法善神説などの形で神仏習合が成立していったが、一方で神事においては仏法を禁忌する意識も、奈良時代後期から平安時代初期にかけて朝廷や神宮で成立した。 『貞観式』及び『儀式』の規定では、大祀である践祚大嘗祭に際しては忌みの期間は中央と五畿内の官司が仏事を行うことが禁止され、中祀及び小祀に際しては僧侶の参内を禁じて仏事を停止することとなった。平安中期以降には新嘗祭、月次祭、神嘗祭など天皇が自ら斎戒を行う祭りにおいては、斎戒の期間中は内裏の仏事をやめ、奉仕の官人も仏法を忌避することとされた。これらの宮中祭祀での仏法禁忌の制度は、近世まで受け継がれている。 また、伊勢神宮においても仏法禁忌が行われ、延暦23年成立の『皇大神宮儀式帳』では、仏教語を忌んで仏を中子、経を染紙などと言い換える忌詞の制度が規定された。忌詞は、斎宮でも同様の制度が行われた。また、伊勢神宮では僧尼が正宮まで近づくことは許されず、僧尼用の遥拝所が、内宮では風日祈宮橋のあたり、外宮では多賀宮のあたりに設けられ、僧尼はそこまでしか進むことができなかった。また、『太神宮諸雑事記』によると、伊勢神宮の神宮寺であった「大神宮寺」も、宝亀7年(776年)に廃寺となっている。 このように、朝廷や神宮では祭祀儀礼において神仏が別体系として存在していたのである。
※この「神仏の習合と隔離」の解説は、「神仏習合」の解説の一部です。
「神仏の習合と隔離」を含む「神仏習合」の記事については、「神仏習合」の概要を参照ください。
- 神仏の習合と隔離のページへのリンク