神仏分離・廃仏毀釈
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明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比咩神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。 山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった。しかし、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されている。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 17:53 UTC 版)
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道の神である羽黒権現は廃された。羽黒山寂光寺は廃寺に追い込まれ、出羽神社(いではじんじゃ)に強制的に改組された。全国の羽黒権現社の多くは神道の羽黒神社あるいは出羽神社となっている。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 05:09 UTC 版)
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく医王権現は廃された。国見平に医王権現堂が残る。全国の医王権現社の多くは、少彦名命を祭神とする神道の医王神社、医王山神社となっている。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 18:29 UTC 版)
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃された。 日吉大社では、公布されたばかりの神仏分離令が最初に実行されたとされる。慶応4年(1868年)近江国日吉山王社は比叡山延暦寺から強制的に分離され、日吉大社に強制的に改組された。このとき、延暦寺に社殿の鍵の引渡しを要求するも拒否されたため、日吉社社司樹下茂国(神祇官神祇事務局権判事)は神威隊および雇い入れた農民100名を率いて社殿に乱入、祀られていた仏像、仏具、仏器、経巻など124点を焼き捨て、鰐口など48点を社司宅へ持ち帰り(『滋賀県百科事典』)、梵鐘等の金属部分を大砲や貨幣鋳造のために押収するなどした。これが先例となって、廃仏毀釈が全国的に行われるようになったという。 なお、日吉大社の権禰宜の話では、廃仏毀釈は「持て余すものをお焚き上げしたに過ぎない」ものだったという。 江戸初期に既に廃仏毀釈が行われた点をみても、大社側は神仏習合をもともと快く思っておらず、神仏分離令をきっかけにすぐ廃仏毀釈が行われたのは、自然な成り行きだったという。また、最初の廃仏のときに、仏像等を延暦寺に返せば、円満に解決したはずだが、裁判を起こされたことが、大社と延暦寺の間にしこりを残し、明治期の激しい廃仏につながったのだという。もっとも、当時は、これまでの崇敬の対象を破壊することはできないと、仏像等を隠した神官や氏子も多くみられたという。 現在も残る山王社の多くは、大山咋神を祭神とする神道の日枝神社や日吉神社等になっている。 2008年、日吉大社は山折哲雄の提唱する「神仏同座、神仏和合の精神の復活」の精神にもとづく神仏霊場会が組織された際、これに創立メンバー125社寺のひとつとして参加、2016年からは「日吉山王大権現」と大書された「干支大絵馬」を成安造形大学に依頼して毎年作成し、参道脇に設置している。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:09 UTC 版)
「転法輪寺 (御所市)」の記事における「神仏分離・廃仏毀釈」の解説
明治元年の神仏判然令(神仏分離)によって一言主大神を祭神とする葛木神社のみが残されて、廃仏毀釈によって金剛山寺(転法輪寺)は廃寺となった。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:00 UTC 版)
明治元年(1868年)3月の神仏分離令によって同年6月金毘羅大権現は琴平神社(同年7月に金刀比羅宮と改称)と改称し、金毘羅権現は大物主と同体であるとして、主祭神の名は大物主と定められた。別当金光院は還俗し、同神社にその一切を譲り、この時点で金光院は消滅し、そのまま社務所となる。なお、塔頭の普門院は山門(現・大門)の外にあったため存続し松尾寺を継承しているとして松尾寺は廃寺とはなっていないと主張している。 全国の金毘羅宮・金毘羅権現社の多くは、大物主を主祭神とする神道の金刀比羅神社(金刀比羅宮・琴平神社・金比羅神社・金比羅宮)になっているが、各地の常夜灯や石碑等に「金毘羅大権現」の痕跡を伺うことができる。その堂の本扁額が金毘羅との表記は今でも金毘羅権現を祀るところであり、金比羅の表記は香川県琴平町の金刀比羅宮に習って主祭神が大物主に変わったところである。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 05:32 UTC 版)
明治維新の神仏分離令(神仏判然令)で権現社・権現宮・権現堂の多くが廃され、「権現」の神号や修験道が一時禁止されたため、権現を祀る神社の多くは本地仏を廃して祭神(垂迹神)のみを祀るようになった。祭神が不詳な権現には復古神道・国学の学説に基づき、記紀神話の神を比定した。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:12 UTC 版)
明治維新の神仏分離によって、権現類と並んで通達で名指しされた。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。また、織田信長が神社破壊をした際に自衛のために、織田信長が信仰した牛頭天王を祭神に変えた社が多かったとし、実は古来からの祭神ではなかったと故意に主張され、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:05 UTC 版)
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、神仏習合信仰の石尊権現は廃された。明治元年(1868年)頂上の石尊社ならびに大山寺は各々大山阿夫利神社の頂上本社(ならびに奥社・前社)と下社に改組された。多くの寺宝は破壊されたが、雨降山大山寺は現在の大山ケーブルの大山寺駅近くに再興されて廃寺は免れた。また大山寺本尊不動明王像も廃仏毀釈から守られ現在も大山寺の本尊として祀られている。また各地の石尊社で廃仏毀釈を免れて石尊神社として残っているものもある。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 10:04 UTC 版)
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく智明権現は廃された。明治4年(1871年)大山寺は大神山神社と天台宗別格本山の角磐山大山寺に強制的に分離された。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 10:05 UTC 版)
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく立山権現は廃された。明治2年(1869年)、芦峅寺・岩峅寺は廃寺に追い込まれ、雄山神社に強制的に改組された。また、立山修験道の布橋大灌頂や立山権現信仰の布教が禁じられた。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 00:35 UTC 版)
慶応4年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく愛宕権現は廃された。明治3年(1870年)天台宗・真言宗両義の白雲寺も廃寺に追い込まれ、愛宕神社(京都府京都市右京区)に強制的に改組された。 本地仏とされた勝軍地蔵は金蔵寺に移されたが現在でも本宮にイザナミを若宮にカグツチを祀っている。 全国の愛宕社の多くは、若宮(太郎坊大権現)に祭られていたカグツチを初めとする神々を祀る神道の愛宕神社となっている。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 13:07 UTC 版)
慶応4年(1868年)の神仏分離・廃仏毀釈は各地の秋葉権現も対象となった。遠州秋葉山では秋葉権現が神仏いずれかで議論が長引いたが、明治5年、社寺行政を主管する教部省は 「秋葉事記ニ聖観音〔行基作〕秋葉山権現〔当山鎮守〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕三尺坊〔秋葉同社ニ祭ル当山ノ護神ナリ〕トアレバ当山ノ鎮守ノ神ト三尺坊ノ霊トハ固ヨリ各別ナルコト明ケシ但シ式内小國神社ハ同郡ニハ有レトモ今宮代村ニアリテ秋葉ノ地トハ自ラ別ナレハ祭神ノ説ハ非ナカラ固ヨリ秋葉ノ主神ハ仏ニ非ル故ニ斯ル説モ起リシナルベシ」 と秋葉権現は三尺坊とは異なる神祇であると判断し、「秋葉大権現之儀慶応三年十二月廿七日神階正一位ヲ被授候事故向後秋葉神社ト称シ可申事」と秋葉神社への改称が妥当とした。 祭神名について教部省は「秋葉事記」の大己貴命説は採用せず、修験の家伝を元に火之迦具土大神と称することが妥当と判断した。全国の秋葉権現を祀る祠堂もこれに準じて神仏判然がなされ、多くが神道の秋葉神社となったと推測されるが、「社寺取調類纂」には明治3年に迦具土神を祭神とする秋葉神社となっている事例も掲載されている。秋葉神社と秋葉寺に分離後の明治6年(1873年)大登山秋葉寺は無住無檀により廃寺となった為、浜松県の指導により三尺坊は可睡斎へ遷座した。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 00:32 UTC 版)
明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく瑜伽大権現は廃された。明治6年(1873年)瑜伽山蓮台寺は廃寺は免れたものの、真言宗の由加山蓮台寺と由加神社に強制的に分離された。
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神仏分離・廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 00:39 UTC 版)
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく越知大権現は廃された。越知山三所大権現の神宮寺であった越知山大谷寺は越知神社と天台宗の越知山大谷寺に強制的に分離された。併せて、越知山の参道の石仏はことごとく破壊された。
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