織田信長とは?

おだのぶなが 【織田信長】 ○

1534~1582戦国時代武将。信秀の三男1560年今川義元桶狭間おけはざま)に破って勢威をつけ、以後群雄攻め従え、73年将軍足利義昭追放室町幕府滅亡させた。安土城を築いて全国統一乗り出す寺社など中世権威破壊する一方貿易奨励楽市・楽座設置など革新的諸事業を断行したが、雄図半ば明智光秀急襲を受け、本能寺自刃

織田信長

作者坂口安吾

収載図書織田信長
出版社富士見書房
刊行年月1987.5
シリーズ名時代小説文庫

収載図書坂口安吾全集 6
出版社筑摩書房
刊行年月1991.5
シリーズ名ちくま文庫

収載図書十四人の信長
出版社講談社
刊行年月1991.11


織田信長

作者海音寺潮五郎

収載図書十四人の信長
出版社講談社
刊行年月1991.11

収載図書武将列伝戦国揺籃
出版社文藝春秋
刊行年月2008.4
シリーズ名文春文庫


織田信長

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


織田信長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 23:14 UTC 版)

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名天下人




注釈

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[2]
  3. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  4. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  5. ^ 詳細は#人物を参照。
  6. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  7. ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
  8. ^ 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
  9. ^ 詳細は#革新者か否かを参照。
  10. ^ 異母兄として織田信広がおり[3]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[3]。これらは庶流の扱いとなる。
  11. ^ a b 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[9]
  12. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[14]
  13. ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[15][16]
  14. ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[17]
  15. ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[18]
  16. ^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[20]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[21]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[21]
  17. ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[22]。以降、本文では「信勝」で統一。
  18. ^ これは諌死であったとも、平手氏と信長の確執のためともされる。
  19. ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[30]
  20. ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[31]
  21. ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[32]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[31]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[32]
  22. ^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[33]
  23. ^ 『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。
  24. ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
  25. ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている)[40]
  26. ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[41]
  27. ^ 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)。
  28. ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[45]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[45][46]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[45]
  29. ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[47]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[47]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[48]
  30. ^ このときは、はじめ、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言していたという。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の織田信清と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じたと伝えられる(『信長公記』首巻)。
  31. ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[51]、柴裕之もこれを支持している[52]
  32. ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[54]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[55]
  33. ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[56]
  34. ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[57]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[58]
  35. ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[62]
  36. ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。
  37. ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[68]
  38. ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[70]
  39. ^ これらは綸旨女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[75]
  40. ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
  41. ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[83]
  42. ^ 『信長公記』によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。また、出発前において、馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックしたという逸話がある(『信長公記』巻二[85])。
  43. ^ このころ、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わったという。この善住坊は、天正元年(1573年)に捕らえられた。信長は善住坊の身体を土に埋め、切れ味の悪い竹製の首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した(巻六)[96])。
  44. ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
  45. ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[101]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[102]
  46. ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[110]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[111]
  47. ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[116]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
  48. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[126]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[127]
  49. ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に陸奥国からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
  50. ^ ちなみに『フロイス日本史』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。
  51. ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[138]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[138]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[138]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[139]
  52. ^ 美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)では、「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという(『信長公記』巻八[141])。
  53. ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
  54. ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
  55. ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[148]
  56. ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも[151]、元々あった地名だとも言われる。
  57. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  58. ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[182]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[182]
  59. ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[185]
  60. ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[204]
  61. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)
  62. ^ この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[215]
  63. ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[216]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[216]
  64. ^ 本能寺の変の後には、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[220]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[220]
  65. ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[223]
  66. ^ ユリウス暦(ただし、最下段のみグレゴリオ暦)。
  67. ^ 宣明暦長暦(ただし、最下段のみグレゴリオ暦)。
  68. ^ 数え年
  69. ^ a b c 実際には、信長は天正3年11月まで無位無官だったと考えられる[225]。天正2年に正四位下参議になったとされているのは、大納言任官の際に、いきなり高位高官に任じるというのは形式上問題があるため、さかのぼって任官されていたことにしたものである[225]
  70. ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
  71. ^
    天皇詔旨良万止、故右大臣正二位平朝臣信長爾、倍止勅命衆聞食宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德須、允惟朝乃重臣、中興乃良士奈利止、志爾不量天運相極氐、性命空逝奴、旌旗輝東海志、晏駕馳西雲須、爰贈崇號氐、照冥路古止者、先王之令典、歷代之恆規多利、故是以重太政大臣從一位爾、上給天皇勅命乎、遠聞食 —  天正十年十月九日、織田信長贈太政大臣従一位宣命「総見院文書」
    (訓読文)
    天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(の)りたまへと勅命(のりたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、一人(ひとり)扶翼(ふよく)の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おもほ)ししに、量(はか)らずに、天運相極(あひきはま)りて、性命(いのち)空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典(れいてん)、歴代の恒規(こうき)たり、故是(かれここ)を以(も)て重ねて太政大臣従一位に上(のぼ)し給ひ賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はろか)に聞食さへと宣る、天正10年(1582年)10月9日
  72. ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[233]。伊達政宗も同様の行為をしている[233]
  73. ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[235])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[236]
  74. ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
  75. ^ でかためて金泥などを塗ったもの。
  76. ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[242]
  77. ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[242][243]
  78. ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[259]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[260]
  79. ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[290]
  80. ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
  81. ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  82. ^ 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある(毎日新聞2019年5月24日)。
  83. ^ 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[300]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[300]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[300]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[300]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[300]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[300]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[300]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[300]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
  84. ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
  85. ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[309]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[309]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[309]
  86. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613
  87. ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
  88. ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[326]
  89. ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  90. ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[338]
  91. ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  92. ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
  93. ^ 池上裕子[366]など。
  94. ^ 信長のこと。
  95. ^ 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
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  161. ^ 「同盟国・親族姉小路頼綱三木氏援軍も後に加勢あり」
  162. ^ 「利治の親衛隊である加治田城家臣団加治田衆を中心に美濃国美濃衆)と尾張国(尾張衆)の軍団」
  163. ^ 「富山県編『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県」
  164. ^ 「『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」
  165. ^ 「第三次信長包囲網は中心の上杉軍が大敗した事により崩壊した」
  166. ^ 「信長と信忠は斎藤利治感状と加増を与え、信頼は美濃斎藤家後継者としても絶大となった」
  167. ^ 「書状ならびに鈴木越後から口上の趣聞き届けた。敵、河田長親は太田面へ(中略)この時打果すようにせよ。重ねて毛利河内守や坂井越中、森勝蔵以下の助勢を派遣するから、これらとよく談合してやること、つぎに斎藤次郎右衛門は殊の外忠義をつくす由、誠に感心の至りであるからいずれ感状を届けるであろう。すべて神保越中守長住とよく談合してやることが大切である。尚、使の鈴木越後守から申し伝えるであろう。斎藤新五殿 信長朱印」
  168. ^ 「注進の趣読んだ。去る四日敵の河田豊前や椎名小四郎らが組んで出て来たのを、一戦に及んで切崩し、三千余人を討捕ったとの事、誠にりっぱな働きで比類なき戦功である。感心の至りで、天下の評判である。いよいよこれからも戦功を励むことが大切である。天正六年十月十一日 斎藤新五殿 信長印」
  169. ^ 「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。富加町史編集委員会 1980, p.231-232
  170. ^ 「注進の趣委細聞き及んだ、そちらの戦場での見事な働き誠に心地よく、天下の評判も殊の外よろしい。(中略)加勢に行った者とも相談し、急ぎ着陣せよ、神保越中守に後のことよく談合すること。天正六年 信長印 斎藤新五殿」。富加町史編集委員会 1980, p.232
  171. ^ 軍記物にて「河田ら猿君野と云える平場へおびき出し、さんざんに勇闘し、即時に切り崩す。(中略)恐懼して浜辺の士、多く斎藤に属するの間、人質を取堅め、神保安芸に預け置き、帰国せしに戦功を感美せらる。」とある
  172. ^ 「越中進出は成功のうちの終わった。これは新五一生のうちの最も華やかな戦歴であった 富加町史下巻 三 新五越中に進出 231-232頁」
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