三職推任問題とは? わかりやすく解説

三職推任問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 16:10 UTC 版)

三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい / さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年4月25日5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。




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三職推任問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「三職推任問題」の解説

天正10年1582年)の元旦信長出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。そして、正月7日勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇見せている(『晴豊公記』)。このため天正10年それ以降に、正親町天皇安土行幸する事が予定されていたと考えられる4月信長太政大臣関白征夷大将軍いずれかに任ずるという構想が、村井貞勝武家伝奏勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案よるものなのか、あるいは村井貞勝申し入れよるものなのか、研究者のあいだで解釈争いがある。いずれにせよ5月になると朝廷は、信長居城安土城に推任のための勅使差し向けた信長正親町天皇誠仁親王に対して返答したが、返答内容不明である。

※この「三職推任問題」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「三職推任問題」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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