京都所司代とは? わかりやすく解説

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きょうと‐しょしだい〔キヤウト‐〕【京都所司代】

読み方:きょうとしょしだい

江戸幕府職名京都守護禁中公家に関する政務管掌京都伏見奈良三奉行支配京都周辺8か国の訴訟の処理、西国大名監視などを行った慶長5年1600設置慶応3年(1867)廃止


京都所司代

読み方:キョウトショシダイ(kyoutoshoshidai)

江戸幕府職名慶長5年設置京都警衛朝廷公家監察などにあたった


京都所司代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 13:08 UTC 版)

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世日本において京都に設置された行政機関である。

永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。

織田信長が設置したもの

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を擁して上洛し、京都を支配下に置いたとき、室町幕府の機構を踏襲し、家臣の村井貞勝を京都の治安維持のために置いた機関である。

天正10年(1582年6月2日、貞勝は明智光秀が信長を殺した本能寺の変のとき、信長の嫡男・織田信忠と共に二条新御所で討死してしまった。

信長の死後、豊臣秀吉が京都を支配下に置いたときは、桑原貞成、杉原家次浅野長政(この3名は、いずれも1582年〈天正10年〉から1583年〈天正11年〉の短期間)、その後前田玄以が京都所司代を務めている。

文禄4年(1595年)、石田三成増田長盛両名が加わった(同年8月近衛信輔あて近衛前久書簡・陽明文庫所蔵)。これらは室町幕府の職名を踏襲したものである。

江戸幕府が設置したもの

『洛中洛外図』(メトロポリタン美術館所蔵)に描かれた慶長期二条城の右手(北)にある所司代屋敷、所司代板倉勝重が公事を行っている

江戸時代に江戸幕府により設置された京都所司代は、京都の治安維持の任務にあたった幕府の部署である。鎌倉幕府におかれた六波羅探題室町幕府におかれた所司代(侍所麾下、京都の治安担当)にならって設置されたものである。

職務

定員1名。3万以上の譜代大名から任命、役料1万石が給され与力30騎(後50騎)同心100人が付属。京都の統治、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視,五畿内及び近江丹波播磨の8カ国の民政を総括した。特に初期は徳川家康徳川秀忠徳川家光の歴代将軍が度々上洛し所司代体制と将軍上洛の不可分の関係がみられた。所司代の役所や住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されなかった。また、支配下の京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領公家領を管理する京都代官に分離するようになった。

元禄元年(1688年)に、京都支配など民政上の権限を京都町奉行に譲った。また、享保7年(1722年)に大坂町奉行なども含めた上方の幕府役職の権限再編が行われた結果、更に権限が縮小されてこれまでの自立性が否定されて老中の監督下に置かれた(ただし、この再編の現地責任者は当時の所司代松平忠周であり、実際の所司代の権限縮小は忠周が老中に転任した1725年以降と推測される[1])。

以後は寺社奉行奏者番などを歴任した後に京都所司代に就任するというように、老中への出世コースの通過点となり、地位のみが高く、幕政上の政治力は急激に低下した。このため、幕末には所司代の無力さが指摘され、京都守護職がその上位機関として設置された。最後の京都所司代の松平定敬は京都守護職・松平容保の実弟で、寺社奉行や奏者番などを一切歴任しないまま京都所司代に任命された異例の人事となった。王政復古の大号令で、京都守護職とともに京都所司代の廃止が宣告された。

歴代京都所司代

エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[2]寛文年間に方広寺大仏は損壊したため、江戸幕府の主導で建て替えられることになった。方広寺を管理していた妙法院が、大仏再建の経緯を綴った『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』[注釈 1]によれば、京都所司代の牧野親成の指示のもと、仏師玄信が大仏再建にあたったという。
  1. 奥平信昌(1600年-1601年)
  2. 板倉勝重(1601年-1619年)(歴代の京都所司代で唯一、自分の子に京都所司代職を譲ることが認められる)
  3. 板倉重宗(1619年-1654年)(京都所司代期間は歴代最長)
  4. 牧野親成(1654年-1668年)
  5. 板倉重矩(1668年-1670年)(老中を務めた後に京都所司代となる。その退任後に再度老中となる)
  6. 永井尚庸(1670年-1676年)
  7. 戸田忠昌(1676年-1681年)
  8. 稲葉正往(1681年-1685年)(罷免、稲葉正休による老中堀田正俊暗殺事件への連座か)
  9. 土屋政直(1685年-1687年)
  10. 内藤重頼(1687年-1690年)
  11. 松平信興(1690年-1691年)
  12. 小笠原長重(1691年-1697年)
  13. 松平信庸(1697年-1714年)(将軍家の奥詰(近習)から京都所司代へ抜擢)
  14. 水野忠之(1714年-1717年)
  15. 松平忠周(1717年-1724年)(このころ上述の権限縮小)
  16. 牧野英成(1724年-1734年)
  17. 土岐頼稔(1734年-1742年)
  18. 牧野貞通(1742年-1749年)
  19. 松平資訓(1749年-1752年)
  20. 酒井忠用(1752年-1756年)
  21. 松平輝高(1756年-1758年)
  22. 井上正経(1758年-1760年)
  23. 阿部正右(1760年-1764年)
  24. 阿部正允(1764年-1768年)
  25. 土井利里(1769年-1777年)
  26. 久世広明(1777年-1781年)
  27. 牧野貞長(1781年ー1784年)
  28. 戸田忠寛(1784年-1789年)(罷免、田沼意次失脚に連座か)
  29. 太田資愛(1789年-1792年)
  30. 堀田正順(1792年-1798年)
  31. 牧野忠精(1798年-1801年)
  32. 土井利厚(1801年-1802年)
  33. 青山忠裕(1802年-1804年)
  34. 稲葉正謖(1804年-1806年)
  35. 阿部正由(1806年-1808年)
  36. 酒井忠進(1808年-1815年)
  37. 大久保忠真(1815年-1818年)
  38. 松平乗寛(1818年-1822年)
  39. 内藤信敦(1823年-1825年)
  40. 松平康任(1825年-1826年)
  41. 水野忠邦(1826年-1828年)
  42. 松平宗発(1828年-1832年)
  43. 太田資始(1832年-1834年)
  44. 松平信順(1834年-1837年)
  45. 土井利位(1837年-1838年)
  46. 間部詮勝(1838年-1840年)
  47. 牧野忠雅(1840年-1843年)
  48. 酒井忠義(1843年-1850年)
  49. 内藤信親(1850年-1851年)
  50. 脇坂安宅(1851年-1857年)
  51. 本多忠民(1857年-1858年)
  52. 酒井忠義(1858年-1862年)(安政の大獄の責任を取らされる形で罷免の上、隠居謹慎を命じられる)
  53. 松平宗秀(1862年)※赴任できず。酒井忠績(1862年5月-9月)が代行。
  54. 牧野忠恭(1862年9月-1863年6月11日)(このころ上述の京都守護職の設置)
  55. 稲葉正邦(1863年-1864年)
  56. 松平定敬(1864年-1867年)(京都守護職松平容保の実弟)

脚注

注釈

  1. ^ 『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は武家の京都巡見にあたり提出された書物である[3]。方広寺は江戸時代に武家の京都巡見地の一つになっていたが、巡見に際しては事前に妙法院に方広寺の由緒を記した書物を提出するよう求められた[3]。そこに記された内容は妙法院の公式見解とされている。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は稲垣重富の巡見に際して提出された書物とされ、大仏再建の経緯などが綴られている[3]。妙法院日次記の元禄16年5月27日条に、巡見にあたり提出した書物控があり、その中の「釈迦心柱ノ書付」が『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』と題されている[3]。上記は『妙法院日次記』2巻に収録されている[3]

出典

  1. ^ 田中暁龍「近世中期の京都所司代の引渡とその権限」『近世の公家社会と幕府』吉川弘文館、2020年、149-177頁。ISBN 978-4-642-04331-1 
  2. ^ アトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年、95頁。 
  3. ^ a b c d e 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について― 寛文期方広寺大仏の再興に関連して―」『Museum(東京国立博物館研究誌)』554号、1998年6月、27頁。 

参考文献


京都所司代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:19 UTC 版)

村井貞勝」の記事における「京都所司代」の解説

足利義昭追放した信長京都を完全支配下置いた後、天正元年1573年7月信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑武井夕庵明智光秀塙直政らの信長行政官側近と共に京都治安維持朝廷貴族・各寺社との交渉御所修復使者接待信長京都馬揃え準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政全て任されている。 天正3年1575年4月信長困窮した公家を救うため、公家旧領返還させる徳政令発する。貞勝は丹羽長秀とともに土地文書調査係争担当した7月信長官位昇進勅諚出されるが、信長はこれを固辞代わりに家臣団への叙任願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がり考慮され正六位下長門守叙任される10月19日には伊達輝宗使者接待した。 天正4年1576年4月信長足利義昭使っていた二条城とは別に二条晴良屋敷新邸を築くことを決め、貞勝に普請命じた。のちにこの新邸は、「二条御新造」「二条新御所」と呼ばれた天正5年1578年3月上旬御所修理終わったため、貞勝は京都町人御所築地塀修復協力するよう命じ人数いくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊り披露され見物客殺到し周辺大変な賑わい見せた。あまりの賑わい正親町天皇貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間完成したという。 天正8年1580年2月26日信長京都での居住所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請命じた天正9年1581年)、出家して村井春長軒号し家督を子の貞成に譲っている。

※この「京都所司代」の解説は、「村井貞勝」の解説の一部です。
「京都所司代」を含む「村井貞勝」の記事については、「村井貞勝」の概要を参照ください。

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