京都所司代の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 08:47 UTC 版)
激怒した後陽成天皇は、乱交に関わった全員を死罪に処せと命じたが、従来の公家の法に死罪はなかった。しかも当時、江戸幕府の力は公家の支配にも浸透しつつあり、捜査権も幕府が有していた。事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が調査に当たることとなった。 調査が進むにつれ、思いのほか大人数が関わっていることが判明し、すべてを死罪とすれば大混乱を生ずることが懸念された。また国母(後陽成天皇の生母)新上東門院(勧修寺晴子)からも寛大な処置を願う歎願が所司代に伝えられた。そこで駿府の家康と京の勝重は、綿密に連絡を重ねながら公家衆への処分案を練っていった。 9月、日向に潜伏していた猪熊教利が捕らえられ、京都へ護送されてきた。
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