京都攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 16:48 UTC 版)
膠着状態の中で先に動いたのは三好軍で、6月2日に岩成友通・伊勢貞孝を加えた三好軍が瓜生山山頂の将軍山城を占拠、修築に当たった。義輝側も報復として2日後の4日に瓜生山南東2kmの如意ヶ嶽を占拠、西麓の鹿ヶ谷で三好軍と小規模な戦闘を起こしたり、浄土寺から北白川に至るまで放火を行い攻勢に出た。また、如意ヶ嶽占拠により将軍山城を覗き見る形となり、西麓の放火と合わせて三好軍に対し戦略的に優位に立った。 南と西から揺さぶられた三好軍は7日に将軍山城を自焼して京都へ退却、代わって如意ヶ嶽から足利軍が出撃して将軍山城を奪った。しかし、如意ヶ嶽は手薄となり翌8日に長逸・久秀らが逆に如意ヶ嶽を占拠したため、両軍の位置が入れ替わっただけに終わった。9日に北白川で両軍が衝突、三好軍は義輝の奉公衆70人を討ち取り勝利した。 この後戦線は再び膠着状態となり、長慶は足利軍を後援していた六角義賢との和睦交渉を開始した。一方で地盤の四国から軍勢を呼び寄せ、7月に叔父の三好康長が四国勢の先鋒として、8月から9月に3人の弟三好実休・安宅冬康・十河一存と息子の三好義興が続々と兵庫・堺に上陸すると、9月18日に堺で三好一族が会合を行い、四国勢が東山の足利軍に圧力をかけた。これが功を奏し、六角義賢は戦局が不利であると認識して和睦を進めていった。
※この「京都攻防戦」の解説は、「北白川の戦い」の解説の一部です。
「京都攻防戦」を含む「北白川の戦い」の記事については、「北白川の戦い」の概要を参照ください。
- 京都攻防戦のページへのリンク