ろっかく‐よしかた〔ロクカク‐〕【六角義賢】
六角義賢(ろっかく よしかた) 1521~1598
◇父:六角定頼 室:畠山修理大夫義総女、土岐頼芸女 子:六角義治、義定
近江・六角氏第13代当主。姉が管領細川晴元正室であったことから、流亡する将軍足利義晴、義輝を助け摂津・三好氏と度々戦い、また北近江・浅井氏とも争い一時は臣従させる。しかし、家臣団との内紛があって統率力は弱まっていたため、奈良から脱出してきた足利義昭を庇護しきれず、後に、義昭を奉じて上洛する尾張・織田氏に反抗して敗れた。その後も、浅井、本願寺勢らと結んで信長に抵抗するが、制圧され1570年降伏した。その後、甲賀、伊賀方面でゲリラ活動を展開するがかなわず、本願寺に身を寄せたとも。宇治田原にて病死する。日置流弓術の奥義を修得した腕を持っている。
六角義賢
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六角 義賢(ろっかく よしかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。官位は従五位下・左京大夫。剃髪後は承禎(じょうてい)と号した。
注釈
出典
- ^ 村井 2019, p. 233.
- ^ 畑井 1997.
- ^ a b 新谷和之「近江六角氏の研究動向」『近江六角氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-144-8。
- ^ 長谷川裕子 著「浅井長政と朝倉義景」、樋口州男 他 編『歴史の中の人物像―二人の日本史』小径社、2019年、138-146頁。ISBN 978-4905350101。
- ^ 「永禄8年12月27日付三雲定持・成持宛和田惟政書状」(『福田寺文書』)
- ^ 奥野高廣「織田信長と浅井長政との握手」『日本歴史』248号、1969年。
- ^ 久保尚文「和田惟政関係文書について」『京都市歴史資料館紀要』創刊号、1984年。/所収:久野雅司 編『足利義昭』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第二巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
- ^ 『野洲町史第2巻 (通史編 2)』p6 野洲町 1987年3月31日刊 全国書誌番号:87037576
- ^ 村井 2019, pp. 284–285.
- ^ 村井 2019, p. 286-287.
- ^ a b 信長公記第6巻
- ^ 「山中文書」十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)
- ^ 信長公記第7巻
- ^ a b c d e f g 六角氏式目に名前の掲載有り。
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