土岐頼芸とは? わかりやすく解説

土岐頼芸

読み方とき よりなり

美濃国主。姓源、名は宗芸、法名龍岳、文閑(文関)、宗源小栗宗丹に筆意学んで山水人物画に巧に、又和歌能くする後家斉藤道三秀龍に居城押領せれる。晩年には明を失う。天正11年(1583)歿、82才。

土岐頼芸(とき よりあき) 1502~1582

二郎 左京大夫 美濃守
◇父:土岐政房 室:六角定頼女、一色義清女 子土岐頼栄、頼次、頼宗、頼元、頼勝、頼昌
 美濃・土岐氏一族西村勘九郎(斎藤道三)に擁立されて、当主の兄政頼を逐い11守護となる。しかしやがて自身も道三に逐われて、一度和解して帰国する再度追放以後越前甲斐上総流浪最後斎藤氏滅びた美濃戻り死去

土岐頼芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 07:35 UTC 版)

 
土岐 頼芸
時代 戦国時代
生誕 文亀2年(1502年
死没 天正10年12月4日1582年12月28日
戒名 東春院殿文関宗藝大居士
墓所 岐阜県揖斐川町法雲寺
官位 左京大夫美濃守
幕府 室町幕府美濃守護
氏族 土岐氏
父母 父:土岐政房
兄弟 頼武頼芸治頼、梅戸光高、揖斐光親、鷲巣光敦、頼満、頼香、光建、各務盛正室(各務元峯・正休母)
正室:六角定頼の娘
側室:深芳野[注釈 1]
頼栄頼次頼宗頼元
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土岐 頼芸(とき / よりのり/ よりあき / よりなり / よりよし)[注釈 2]は、戦国時代美濃国守護大名土岐政房の次男。

土岐氏当主で兄の頼武及びその子の頼純の嫡流と対立し、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末に、土岐氏当主となり、美濃守護となった。しかし、後に家臣の斎藤道三により美濃国から追放された。

生涯

文亀2年(1502年)に土岐政房の子として生まれる。この当時の美濃国内では、重臣の斎藤家が守護代・斎藤利国戦死により衰退し、代わってその庶流の長井家が台頭するなど、斎藤家中は不安定な情勢であった。

斎藤家だけではなく守護土岐家にも暗雲が漂っていた。土岐政房は次男の頼芸を溺愛して長男の頼武の廃嫡を考えるようになり、小守護代長井長弘長井新左衛門尉斎藤道三の父)らを頼芸派に巻き込んだ。長男の頼武側でも守護代斎藤利良の支持を受けたことにより対立して、家督争いから永正14年(1517年)には合戦となったものの、頼芸側は敗れた。

永正15年(1518年)に再び合戦となり、前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て勝利した頼芸側が、頼武を越前国へ追放し、頼武側の勢力を一掃した。永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側は美濃に侵攻し、頼芸側を敗走させた。頼武が美濃守護の座を頼芸から奪うことで情勢は一旦は決着した。

頼芸は大永5年(1525年)に政権奪取を企てて再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄3年(1530年)には頼武を再び越前国に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。その後、後ろ盾であった斎藤長弘、長井新左衛門尉らが相次いで死去したが、新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持を図ったとされる。

天文4年(1535年)6月、父の十七回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言した。すると外戚の朝倉氏どころか六角氏らの加勢を得た、兄の後継の甥・頼純との対立は激化し戦火は美濃全土へ広がった。同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川洪水で流され、稲葉山の麓に移った。なお、同年6月22日、第12代将軍足利義晴の執奏により、修理大夫に任官され、翌天文5年(1536年)、勅許により美濃守に遷任されて正式に守護の座に就いた。

同じ頃、対立関係の六角定頼から娘を娶って六角氏と和睦した頼芸は、美濃争乱の収束化に成功し、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こり、これ以降は道三との仲が険悪となり、次第に対立することになった。

天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し、鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された。

頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て、越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総国の一族の土岐為頼(万喜為頼)を頼り[3][4][5]、後に甲斐国武田氏の相談役を務めたこともあり、美濃出身で土岐氏出自とされる快川紹喜に招かれ身を寄せる。この間に病によって失明する。

この間に大勢力となっていた織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、半年後の天正10年12月4日(1582年12月28日)に死去したといわれている。享年81。

逸話

  • 文化人としても知られ、幾つもの書画を書き残している。特にの絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。また同じく鷹の絵を得意とした一族の画家の土岐冨景、土岐洞文と同一人物と推定される。頼芸の孫で頼次の子の土岐頼高も同じく鷹の絵を得意とし、後に豊臣秀吉に仕え、ついで徳川義直御伽衆になっている。
  • 道三の子で、後に稲葉山城主となる斎藤義龍の生母・深芳野は頼芸の愛妾で、享禄元年(1528年)に頼芸から道三に下賜されている。翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれている出生時期や、道三と義龍が義絶していることから、義龍を頼芸の実子とする説もあるが、これは江戸時代の創作であるともいわれている。
  • 子のひとり大圓は父祖の追福のために、三河国宝飯郡広石村(現愛知県豊川市御津町)に真宗大谷派寺院、等光寺を創建。1609年に神田旅籠町(現千代田区外神田)に移転し、明暦の大火によって浅草へと移転した[6]歌人土岐善麿は大圓の子孫にあたる。

脚注

注釈

  1. ^ 一説に一色義清の娘または『美濃国諸家系譜』によれば母は一色義遠の娘(つまり稲葉一鉄の姉又は妹にあたる)。後に斎藤道三の側室となった。
  2. ^ の読みは諸説あり明確ではなかったが、頼忠の菩提寺である禅蔵寺の過去帳に芸(ノリ)のルビが記載されていることが平成20年(2008年)に明らかとなっている[1][2]

出典

  1. ^ “土岐頼芸の読み方は「よりのり」? 大河ドラマでも変遷、新資料発見”. 毎日新聞. (2021年9月8日). https://mainichi.jp/articles/20210908/k00/00m/040/072000c 
  2. ^ 小和田哲男『明智光秀・秀満』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年、41-42頁。 
  3. ^ 佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」、『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年
  4. ^ 『夷隅町史 資料集』、2002年
  5. ^ 滝川恒昭執筆文『夷隅町史 通史編』、2004年、183-184頁
  6. ^ 等光寺|土岐頼藝の遺子大圓が創建

関連作品

参考文献

  • 『夷隅町史 資料集』、2002年
  • 『夷隅町史 通史編』、2004年
  • 佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年。 

土岐頼芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 16:10 UTC 版)

国盗り物語」の記事における「土岐頼芸」の解説

美濃守護大名土岐政頼の弟。兄との相続争い敗れた後、郊外鷺山に館を与えられ逼塞し、以後毎日遊芸明け暮れて生活していた。しかし長井利隆連れてきた道三を知りその多種多芸な才に魅了され閑暇持て余してたことから無聊慰め役として臣下加える。道三が魔術的な策謀自身守護職就けたことによって改めて道三に傾倒し無二の能臣として大い寵愛した。その日常は懶惰極め昼夜問わず酒色耽るばかりの生活を送っている。唯一の取り柄画才で、その筆によるの絵は「土岐」と呼ばれて京の好事家の間で珍重されているが、画才なければ何のためにこの世存在してかわからないよう人物怠惰多情であるという頼芸の人物見抜いた道三は、酒色惑溺させて政務から遠ざけ自身美濃国実権握った

※この「土岐頼芸」の解説は、「国盗り物語」の解説の一部です。
「土岐頼芸」を含む「国盗り物語」の記事については、「国盗り物語」の概要を参照ください。

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