畠山義慶(はたけやま よしのり) ????~1574
畠山義慶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 21:56 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 天正2年(1574年) |
改名 | 次郎(幼名)→義慶 |
戒名 | 興性寺殿桂岳徳林大禅定門 |
幕府 | 室町幕府能登守護 |
主君 | 足利義栄→義昭 |
氏族 | 畠山氏(能登畠山家) |
父母 | 父:畠山義綱、母:不明 |
兄弟 | 義慶、義隆 |
畠山 義慶(はたけやま よしのり)は、能登の戦国大名。能登畠山氏の当主。畠山義綱の嫡男である。
生涯
天文23年(1554年)、畠山義綱の嫡男として生まれる。
永禄9年(1566年)に永禄九年の政変にて祖父畠山義続と父畠山義綱が重臣たちによって追放されると、遊佐続光、長続連、八代俊盛らに、元服前の義慶が傀儡君主として擁立された。元亀2年(1571年)に修理大夫に任じられたり、天正元年(1573年)には能登の一宮気多大社造営の棟札に義慶の名が見えるなど(現在でも石川県羽咋市に現存)、その行動が残る。
天正2年(1574年)に急死した。この死因は病死説もあるが、暗殺されたとも言われる。暗殺説の実行犯については遊佐続光と温井景隆が有力とされている。跡を弟の畠山義隆が継いだ。
以上が定説となっているが、十分な資料が残されていないため、これも仮説の域を出ていない。弟の畠山義隆との同一人物説があり、これもまだ完全に否定されていない。
偏諱を与えた家臣
畠山義慶(はたけやま よしのり)
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「センゴク」の記事における「畠山義慶(はたけやま よしのり)」の解説
通称は修理大夫。義綱の子で、義綱に代わって遊佐続光に擁立される。後に父や上杉家に通じている事が露見し、間もなく遊佐によって毒殺される。畠山家の行く末を死の間際でも案じ続け、遊佐を恨まぬように言い残した上で長続連に春王丸を託した。
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