温井景隆とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 戦国武将辞典 > 温井景隆の意味・解説 

温井景隆(ぬくい かげたか) ????~1582

兵庫助 備中
◇父:温井続宗? 弟:三宅備後守長盛 子:温井備中守景際
 能登畠山氏臣。1555年当主義綱に温井総貞暗殺される出奔。しかし、義綱追放後復帰し当主義慶の下年寄衆となる。1577年越後・上杉氏内応。後に侵攻して来た織田信長の軍に逐われて、越後退去した。信長死後石動山侵攻して、元信長臣前田利家対峙するが、利家の要請受けた佐久間盛政軍に討たれた。

温井景隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 23:17 UTC 版)

 
温井 景隆
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年6月24日1582年7月13日
官位 兵庫助備中
幕府 室町幕府
主君 畠山義綱義慶義隆春王丸
氏族 温井氏
父母 父:温井続宗
兄弟 景隆三宅長盛長綱連正室
テンプレートを表示

温井 景隆(ぬくい かげたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将能登畠山氏の家臣。

略歴

藤原北家利仁流温井氏能登国国人で、現在の輪島を領していた。

弘治元年(1555年)、祖父・温井総貞が主君・畠山義綱によって討たれると、温井一族は反乱を起こすが敗れて加賀国へ逃亡した。永禄9年(1566年)、義綱とその父・義続が重臣らによって追放されると帰参し、年寄衆に列して再び重臣となる。

天正5年(1577年)、上杉謙信の大軍に七尾城を囲まれると、遊佐続光と協力して親織田派の長続連らを殺害し、謙信に内応した。しかし謙信の死後、織田軍の侵攻に遭って能登を追われる。天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が没すると、復権を目指して上杉景勝の支援のもと能登へ侵攻したが、佐久間盛政前田利家の反撃に遭い、戦死した。(荒山合戦

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「温井景隆」の関連用語

温井景隆のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



温井景隆のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの温井景隆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS