温井総貞とは? わかりやすく解説

温井総貞(ぬくい ふささだ) ????~1555

兵庫助 紹春 備中
◇父:温井備中孝宗 弟:温井山城守貞 子温井続宗?
 室町創期の功臣桃井直常の子義綱が祖。温井氏の“温”の字は桃井氏の“”からきているという。能登畠山氏重臣1547年畠山氏内紛で、義続を護る1553年対立する重臣遊佐氏との勢力争い勝って家中牛耳った。しかし、1555年当主権力回復を図る義綱に殺害された(弘治の内乱)。

温井総貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 13:21 UTC 版)

 
温井 総貞
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 弘治元年(1555年
改名 総貞→紹春(法名)
別名 景長、備中入道
戒名 紹春禅定門
官位 兵庫助備中
主君 畠山義総義続義綱
氏族 温井氏
父母 父:温井孝宗
兄弟 総貞、続基(景貞)、綱貞
続宗、女(長続連室)
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温井 総貞(ぬくい ふささだ)は、戦国時代武将能登畠山氏の家臣。剃髪後の温井紹春でも知られる。畠山七人衆の筆頭。能登国天堂城主。

生涯

藤原北家利仁流温井氏は能登の国人で、現在の輪島を領していた。

畠山義総義続義綱3代にわたり仕えた(最初の主君・義総からは偏諱(「総」の字)を与えられた)。文芸に深く義総の寵愛を受け家中の筆頭重臣となった。天文3年(1534年)に兵庫助、天文14年(1545年)に備中を称す。義続・義綱の時代になると専横に振る舞うようになり、畠山七人衆の筆頭となった頃には、遊佐氏の当主・遊佐続光を蹴落とし、権勢をほしいままにした。

弘治元年(1555年)、大名の地位回復を目指す主君・義綱と、その近臣・飯川義宗の謀略により暗殺された。




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