遊佐続光と長続連の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 03:35 UTC 版)
「畠山七人衆」の記事における「遊佐続光と長続連の対立」の解説
七人衆内では3番手であった長続連の権力が拡大すると、筆頭の遊佐続光はかつての敵である温井景隆を引き込み、続連に対抗するようになる。 越前侵攻によって織田信長の勢力が能登まで伸びてくると長続連は織田氏に近づき、上杉氏寄りの続光とは反発しあうようになるなど、両者の権力争いが明確化する。この時、新たに擁立した畠山春王丸に関して畠山家の政情は上杉に付くか、織田に付くかで非常に不安定であった。 春王丸に近かった続連の政策が行われ、畠山家は上杉家と対立する。上杉謙信は上条政繁(畠山義則)を正当な当主としてこれを大義名分とし、畠山氏の居城・七尾城へ侵攻する(七尾城の戦い)。最初の侵攻を防いだ後、2度目の侵攻に際して長続連は織田の援軍を得るべく、息子の長連龍を使者として安土城へ送り、籠城策を取る。しかし、上杉家と呼応した続光及び景隆による謀反によって七尾城は陥落し、続連を始めとする長一族は皆殺しにされた。また、信長の命を受けた柴田勝家は後詰として七尾城へ向かうも救援が間に合わず、退却中に手取川の戦いで上杉軍に襲撃される。手取川の戦い及びそのきっかけとなる七尾城の戦いは、この重臣間の権力争いが遠因でもある。 この七尾城の戦いによって能登畠山家は滅亡し、以後、七尾城及び能登は遊佐続光が実権を握ることとなった。
※この「遊佐続光と長続連の対立」の解説は、「畠山七人衆」の解説の一部です。
「遊佐続光と長続連の対立」を含む「畠山七人衆」の記事については、「畠山七人衆」の概要を参照ください。
- 遊佐続光と長続連の対立のページへのリンク