遊佐未森との出会い
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遊佐未森へは、1988年4月1日発売のデビューアルバム『瞳水晶』から数多くの楽曲の作詞を手掛けており、13のシングル曲が工藤の作詞である。同年10月21日発売のセカンドアルバム『空耳の丘』からシングルカットされた「地図をください」は日清カップヌードルのCM曲としてテレビ放映され(出演はアーノルド・シュワルツェネッガー)、オリコンチャートにもランクインするヒット曲となった。工藤はこの曲でようやくプロの作詞家としての自覚が持てるようになったと語っている。 工藤が遊佐未森の歌詞を手掛けるようになったきっかけについては、当時、エピックソニーの音楽プロデューサーであった福岡智彦が次のように語っている。遊佐をデビューさせるにあたり、工藤が所属するヴァーゴミュージックでマネージメントする話が既に進んでいた。福岡がヴァーゴミュージック社長の坂野雄平に会いに行ったところ、ミディとの話もあったのだが、坂野がソニーを選んだため、エピックソニーからのデビューが決まった。作詞担当者が決まっていなかったため、福岡は以前、下田逸郎から教えられた『茜色のカーニヴァル』を気に入っていたため、工藤に作詞を依頼することを思い立った。 工藤はソロアルバムを発表し、NHK『みんなのうた』で放送された後も、まだ大分市の実家に住んでいた。身体が丈夫でないこともあり、上京してプロとして活動する意思も無く、田舎でのんびり過ごしたいと思っていた。福岡が電話で依頼した際も、工藤からははっきりした返事は無かった。福岡、坂野、遊佐の3人で大分まで会いに行き、工藤に案内された由布院温泉の喫茶店で話をしたのだが、福岡は当時20代であった工藤の第一印象を、「まるで女子中学生のようだった」「細くて小柄で声も小さくて、瞳の大きな聡明そうな女性だった」と語っている。この「由布院ミーティング」で工藤が遊佐の曲の作詞を担当することが決まり、工藤にとっても本格的なプロの作詞家としての第一歩となった。 また曲については、『瞳水晶』のアレンジを手掛けた成田忍をはじめ、松尾清憲、太田裕美、くじらのキオトなどからも集めていたが、外間隆史がある日突然、曲を作ってデモテープを持ってきた。その曲こそが後に工藤の詞がつき、遊佐と工藤の代表作「地図をください」となる曲である。 「地図をください」がCM曲としてヒットしたことで広告業界からも反応があり、CMディレクターの川崎徹が、遊佐に歌詞を提供したいと言い出した。川崎は1980年代、コピーライターの糸井重里や仲畑貴志と並んで広告ブームの立役者となった人物である。大分まで行って工藤の才能を発掘してきた福岡は内心困惑したものの、超売れっ子である川崎の申し出を無下に断るわけにもいかず、どんな詞がいいかと川崎から聞かれ、「宮沢賢治的な世界で‥」などと答えた。しかし福岡は結局、川崎の詞が気に入らずにダメ出しを繰り返した挙げ句に、「この件はもう無しにしませんか」と電話で断ったため、激怒した川崎に六本木の事務所へ呼び出され、平謝りしてその場を収めた。福岡はそれでも、バブル時代の広告ブームの立役者であった川崎より、田舎でひっそり暮らしてきた少女のような工藤の書く詞の方が、遊佐の世界に合っていると信じて使い続けたという。 こうして工藤は遊佐未森のデビューに関わることにより、プロの作詞家として本格的に活動を始めることになった。故郷の大分市から上京してきた時には、工藤は既に30代となっていた。
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